「きみ」と「僕」の話

鴻巣友季子*1「外国語習得と他者性を巡る歪みと屈曲」『毎日新聞』2021年11月20日


グレゴリー・ケズナジャット『鴨川ランナー』の書評。
この本には、表題作「鴨川ランナー」と「異言」が収録されているが、「どちらも外国語習得と、他者性をめぐる物語である」。露わになるのは「異質なものとのつきあいと、そこで経験する違和感や疎外感」。
「「鴨川ランナー」の特徴のひとつは、主語に「きみ」という二人称を用いていることだ」という。


米国で生まれ育った「きみ」が高校の授業で日本語科目を選択したのは、「きみの視線は文面に触れるたびにするっと滑り落ちる。その無頓着さは魅力的でもあり、挑発的でもあった」からだ(傍点筆者)。大学卒業後は、英語ネイティブでさえあれば資格経験不問という京都の中学校の英語教員に採用される。
本作は視線にまつわる物語でもある。米国での恋人はピエール・ロティの『お菊さん』を引き合いに出し、「きみ」のエキゾチシズムやアジア人への支配欲を指摘してくる。「きみ」は英語人として、ある種の「眼差し」をアジア人に持っていることを認めるが、予想外にも日本で待っていたのは、自分を観察してくる日本人の「視線」だった。
日本の社会に深く入っていきたいと願う「きみ」の前に立ちはだかる壁の一つは、習慣の違いなどではなく、なんと英語だ。日本語話者の多くはむしろ英語を話したがり、会話はなべて教科書に載っているような行儀の良い表面的な英会話になってしまう。さらに、英語人は日本語を下手に話した方がうけが良い。この現象がより顕著なのは、福井を舞台にした併録作「異言」である。
こちらの方の語りの主語は「僕」。

二人称の「you」は一人称「I」の」対岸にあるのだから、二人称で語ることは、そこにいない「我」と他者について問い、自他の関係を考えることでもある。マルティン・ブーバーは著者『我と汝』*2で、理解の仕方には「われ―それ」と「われ―なんじ」の二種類の型があるとした。前者は、自分の目的を達成するための手段として「それ」を「占有」するが、後者は、「なんじ」に平等な存在として注意を向け、ゆえに「他者」と出会う。
「きみ」も「僕」も「われ―なんじ」の関係を求めて異国に来たが、「われ―それ」の扱いをされたと感じているのだと思う。日英翻訳の仕事を始めた「僕」が、翻訳者とは透明な「変流器」ではなく、「新しい言葉の源そのもの」になる必要があると気づく場面は重要だ。原文の語彙が自分の中に「引っ掛かり、詰まったり」して、その源が濁ってくるというのだ。しかし彼が求めていたのは、すらすらと流れる言葉ではなく、まさに詰まりを起こすような言語体験ではなかったか。
一方、「僕」は子どものころ、友人が洗礼式で「異言」(信仰の恍惚の中で発する意味不明な言葉)を喋ったことを思いだす。それは信仰心の発露か、聖なる力への渇望のなせる業か、それとも要求された「演出」を果たしただけなのか? この「異言」は「僕」と「きみ」の異言語、即ち彼らを「それ」として見る視線の先にある英語であり日本語でもあるだろう。