「翻訳小説」というジャンル

鴻巣友季子*1「「翻訳」仕掛け 言葉の虚構 幾重にも」『毎日新聞』2021年5月8日


アンナ・ツィマ*2『シブヤで目覚めて』(阿部賢一、須藤輝彦訳)の書評。


(前略)失われた日本近代文学を探すミステリであり、ラブコメであり、分身小説であり、入れ子状の「虚構内虚構小説」であり、翻訳小説でもある。翻訳小説とは、邦訳された小説という意味ではない。翻訳作業そのものを描く小説であり、その訳文が小説の一部を組成する小説であり、翻訳を通して何度も生まれなおす小説という意味だ。
この小説の「主人公」は、「ヤナ・クプコヴァー」という日本文学専攻のチェコの女子学生と彼女の「シブヤの街に幽霊として閉じ込められてしま」った「分身」。

(前略)ヤナは周りになじめず、そんな孤独のなかで出会ったのが村上春樹だ。『アフターダーク』の翻訳書に夢中になり、春樹風の小説を書くに至る(このあたりには作者の実体験が反映されている。ヤナはアンナの分身でもある)。
ヤナ作の春樹風小説は、それを文体模倣する役者の技が巧みで爆笑してしまった。ここにはすでに、本書が何重もの意味で翻訳小説であることが示されているだろう。村上春樹チェコ語版で読んだ少女が、春樹をチェコ語に訳したような小説を書き、それがまた春樹流の日本語にあたかも「訳し戻されて」いる風なのだ。翻訳を通した文学の遥かなる循環。事実、二人のヤナのパートが交替する本作の二部構成は、村上の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド*3を思わせる。
「ヤナ・クプコヴァー」が研究の対象とするのは「山下清丸」という戦前の日本の無名作家。「ヴィクトル・クリーマ」という「日本学博士課程の超秀才」が登場し、彼女らは共同で山下の短篇「恋人」と随筆「揺れる想い出」を翻訳していく。

揺れる想い出」で、関東大震災に見舞われた焦土東京を描写する山下清丸の筆致は、圧巻のひと言だ。いま思わず、「山下清丸の筆致」と書いてしまったが、もちろん、翻訳者になりすまして執筆したのはアンナ・ツィマである。いや、日本語版においてそれを日本近代文学風に「訳し戻し」ているのは、阿部賢一であるが、こうした複層的な翻訳過程を忘れてしまう「透明な翻訳」といえる。
そう、本書は魅惑的な「矛盾」と「擬態」の書なのだ。舞台の四割弱は日本であり、日本語を話す人々が出てくる。また、全編の何分の一かは日本文学からの引用が占めており、この部分は「大正ごろの日本語」で書かれている(はずだ)。とはいえ、チェコ語原作の読者が読んだのは、チェコ語で書かれたテクストだけだろう。これらの引用部分は、架空の日本語を「翻訳」したような偽装をしているからだ。その一方、日本語版訳書(本書)の読者が目にするのは、ときに流麗、荘重、ポップな名調子で書かれた日本語文だけである。
当り前じゃないかと言われるかもしれないが、「虚構内で話され・書かれている言葉」と、読者が目にする「文字テクストに刻まれた言葉」が、じつはまったく違うものであることを、本書は翻訳という装置を通して鮮やかに示しているだろう。たとえば、『戦争と平和』の物語内ではロシア語とフランス語が話されている設定だが、トルストイは場合により、全文をロシア語で書いてから、「と、フランス語で言った」と付記したりする。さらに、それが日本語版では、日本語のみで構成されることになる。作品が暗示的/明示的にはらむ内的な翻訳、および作品そのものが被る外的な翻訳の過程では、こういう矛盾的な擬態がしばしば起きているのだ。