「ティム・オブライエン体験」

村上春樹―ザ・ロスト・ワールド

村上春樹―ザ・ロスト・ワールド

黒古一夫*1村上春樹 ザ・ロスト・ワールド』(第三書館、1993)という本を持っていたことに気づいた。何時頃買ったのかは憶えていない。
この本は、「第二二回群像新人文学賞を受賞した村上春樹の処女作『風の歌を聴け』(一九七九年)*2の世界が一九七〇年八月の二週間余りの日々であることの意味は、決して軽くない」という文から始められている(p.8)。それで、面白いかもと思って頁を捲っていったのだが、出てくるのは左翼オヤジの繰り言の連発という感じで、やれやれ。


村上春樹は、見せかけの「平和」と「豊かさ」のなかで〈未来〉への展望を持たずに浮遊している今日の〈都市〉の表層、あるいは気分を代表している作家なのである。例えば農の解体に苦悩する「地方」や、あるいは〈アジア〉への視点を持って〈未来〉を考える人間にとって、村上春樹の世界はどんな意味も持ち得ない。ひとはただ通り過ぎるだけである。そのことは、長編作品はもとより多くの短編が如実に物語ることでもある。そして、それが今日の「豊かな日本」に生きる人間の大半を占有している〈気分〉でもあるのだが、村上春樹はまぎれもなくこの時代が生んだ作家である。(7章「アメリカ・中国、そして短編小説」、p.176)
こんなことを言われても、だからどうなのよと言うしかないだろう。現在「〈アジア〉」においてこそ「村上春樹」が歓迎され・受容されているのは皮肉なことだ。「村上春樹の世界」が「どんな意味も持ち得ない」「〈アジア〉」っていまや北朝鮮くらいなのではないかしら。
風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

という感じで、徒労感とともに斜め読みしていたのだが、9章「核状況下のゾンビ」と10章「新しい世界に向かって」で、村上春樹は1990年の短篇集『TVピープル』を境に(これは黒古氏の表現ではないが)ディタッチメントからコミットメントの方向に転換し、1992年の『国境の南、太陽の西*3でそれが決定になったが、この転換はティム・オブライエンの『ニュークリア・エイジ』を翻訳した体験の衝撃によるものではないかと指摘しているのは面白かった。
TVピープル (文春文庫)

TVピープル (文春文庫)

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

ところで、林少華氏はこの転換(氏の表現でいえば「従小資到闘士」)は『ねじまき鳥クロニクル』を契機とすると述べている(林少華「“暴力、就是打開日本的鑰匙”――関於《奇鳥行状録》」『書城』2007年9月号)*4