「付け足しことば」その他

マガジンハウスのPR雑誌『ウフ.』No.66に載っていた鴻巣友季子さんのエッセイ「余計なこと」を読んで、例えば「その手は桑名の焼き蛤」とか「恐れ入谷の鬼子母神」とか「けっこう毛だらけ、猫灰だらけ」とか「驚き、桃の木、山椒の木」とか「何か用か、九日、十日」とか「あたりき、車力、こんこんちき」といったような言い回しを「付け足しことば」ということを知る(p.79)。私はただ地口と呼んでいた。ところで、私は「そうは烏賊の金玉」というのをよく使うが、これって全国区的な表現?
また、同じ雑誌で、三砂ちづるさんは、


女子大生何人かといっしょにいたとき、誰かが「お父さんとお母さんは一緒に寝ている?」と聞きました。「え? ぜったい一緒に寝ているよね。そういうものだよ。別々に寝ているのなんか見たことない」。地方出身の学生にはこういう人が多かった。首都圏や大都市圏出身の学生には(sic.)けっこう「うちは別々に寝てるよ」というのです。日本はもともと「ふとん」で寝ていて、ダブルベッドじゃないので、ずるずるとふとんを隣の部屋に引っ張っていけば、あっという間に夫婦別床になってしまうのです。(「寝る段取り」、p.85)
と述べていた。

ところで、ポプラ社のPR雑誌『アスタ』No.14で、池上永一氏は、「昨今の沖縄」で、「自己実現系ユタ」(「涙」、p.6)が多いと述べている。「「不思議ちゃん」の成れの果て」或いは「歳食った鈴木蘭々が霊感ビジネス始めましたといった具合」(p.7)。しかし、


そもそもシャーマンとは共同体の維持のために「生け贄」になる人であって、ユタであることに「自己実現」は含まれない。彷徨える個人が自分探しの末にユタになる、というのは論旨が体を成していないのである。(p.6)
これって、(多分にオリエンタリズムを内に含んだ)〈スピリチュアリティ文化〉に民俗文化が侵蝕されているということ?