ちげーよ

孕むことば (中公文庫)

孕むことば (中公文庫)

鴻巣友季子*1「ちがくって!」(in 『孕むことば』、pp.109-115)


曰く、


「ちがっていて」を「ちがくって」という子供は多いと思う。うちの娘も1歳のころから言うようになった。「ちがくて」というぐうに音が縮まることもある。もちろん親も間違いには気づいているが、そんなに違和感がなかった。なぜだろう? と考えてみたところ、自分も幼いころそう言い間違えたことがあるからだ。自分だけでなく、同年齢の子たちのなかにも、間違って使う子はいた。つまり、「ああ、子どもによくある間違いをうちの子もしているな」と認識したのだ。(p.110)

(前略)偶然、林望さん*2の「『違い』と『違ひ』のちがい」と題するこんなエッセイに出会った(『三省堂ぶっくれっと』誌 引用は同社HPより)。

これは、もっぱら若い人たち、それもせいぜい二十五歳以下の、いくらか教養程度の低い(あえて言えば育ちのあまり芳しくない)人たちに特有の言い方のように思われるのだが、すなわち、こういう言い方である。
「その答えはチガくって、正解はね……なの」
リンボウ先生によれば、「違う」というのは本来本来、「違わない/違おう、違います/違って、違う、違うとき、違えば、違え」と活用する動詞のはずなのに、ここでは「違かろう、違かった/違くする、違い、違いとき、違ければ」と形容詞化して使われている。きっと「白い、高い」などの形容詞と一緒にしているせいだろうと言う。びっくりである。「まずい」とか「やばい」とかと同一の感覚なのか? 若い彼らは「顔が青いよ」とおなじように、「その答え、ちがいよ」と言ったりするのだろうか?(たぶんそれはない)。
ちなみに絲山秋子芥川賞受賞作「沖で待つ*3にも、「なんか、思ってたのと違くねえ?」という若い男性(新卒会社員)の台詞が出てくる。
違いの「い」と白いの「い」がたまたま同音であることから、名詞であるはずの「ちがい」が、形容詞の終止形または連体形のように意識され、「そこから無知に基づいて、『チガく』だの『チガかった』だのという誤用が発生してきたのものではあるまいか」とリンボウ先生は言っている。旧仮名遣いで書いてみると、両者の違いは歴然とする。「違ふ」の連用形は「違ひ」と書くからだ。ちなみに「白い」の終止形・連体形は「白し・白き」*4。しかし、こんどはこっちを「白ひ」「高ひ」などと旧仮名風に誤用する人たちもいるので、ますます混乱してしまう。先生は「ちがくって」という誤用は、発生すべくして発生した、歴史的必然であろうとしている。(pp.112-114)
沖で待つ (文春文庫)

沖で待つ (文春文庫)

鴻巣さんは「若い彼らは「顔が青いよ」とおなじように、「その答え、ちがいよ」と言ったりするのだろうか?(たぶんそれはない)」という。でも、それはある(少なくとも、あった)と思う。
20年くらい前の1990年代後半、(リンボウ先生風に言えば)「二十五歳以下の、いくらか教養程度の低い(あえて言えば育ちのあまり芳しくない)人たち」*5が何時も、本来なら


違うよ


と言うべきところを、


ちげーよ


というのを聞いて、その度にうざいぜと思っていたのだけど、リンボウ先生を援用した鴻巣さんのエッセイを読み返して、その謎が解けた感じがした。当時、「違う」がどう訛って「ちげー」に変化したのかが疑問だったのだけど、「違う」じゃなくて「違い」が「ちげー」に変化したと考えれば、話はすっきりする。aiがeeに変化するのは江戸を中心としたべらんめえの基本的な特徴だ。くすぐってえ(くすぐったい)、てめえ(手前)、ねえ(無い)。鴻巣さんもcurryの片仮名表記の主流が「カリー」ではなく「カレー」であるのは「辛い」と関係があるのではないかと示唆している(「翻訳、そのカレイなる暗喩」、pp.90-91)。彼女は言及していないけれど、「カレー」という表記に拘った人は東京下町の関係者だった可能性が高いのでは?