反「オヤジ」小説

中島京子*1「橋本流の逸脱、脱臼、余談の戦後史小説」『毎日新聞』2021年12月4日


橋本治*2『人工島戦記』の書評。
この本は「「オヤジ」社会を終わらせるにはどうしたらいいかの模索の書」でもあるという。


二段組1200頁強の長編小説であり、100頁に及ぶ詳細な「人名地名その他ウソ八百辞典」なる註があり、その上、著者による「人工島戦記地図」が別冊付録としtつく、前代未聞の大著である。
書き始められたのは、1993年。一部が雑誌連載されたが、その後は加筆修正が続けられ、2005年くらいまでには現在本になったほどのボリュームが書きあがっていたという。目次だけは最終章まであるが、19年の著者に急逝によって、未完となった。

首都東京潟遠く離れた架空の地域「千州」、「比良野市」(九州。博多がモデルとも言われる)にある、国立千州大学の学生であるテツオは、有人のキイチの部屋でテレビを観ながら、「こんなのいらねーよなー」と思う。こんなのとは、市長の辰巻竜一郎が旗を振る志附子湾の四分の一を埋め立てる「人口統計画」だ。生息地を失う野鳥のために反対する市民の存在はあり、テツオの母ヨシミがまさに反対派なのだが、テツオの反対理由は環境保護ではなかった。「発展と繁殖」を望み、「海を埋め立ててオシャレなもんを作る」という昭和30年代の高度経済成長期からバブル期に至るまで一貫している「オヤジ」的感覚で事業を推進する市長・辰巻竜一郎の発想が、なんともいえず「ダサ」く感じられたからなのである。
そう、時は93年、バブルは2年前に崩壊している。

この小説の骨子は、政治のことを何も知らない大学生が、デモのやり方を学び実践するにいたるまでの物語、なのであるらしい。著者は実に懇切丁寧に、20歳そこそこの主人公たちに、デモのやり方を体得させるべく指南する。著者若かりし60年代には日常的にあったのに、この小説が書かれた93年から05年という時期は、学生によるデモは、ほとんど見られなくなっていたはずだ。
(略)橋本治は、学生運動が存在しなかった時代に、その可能性を問おうとしたのである。

むしろこの小説は、なぜ「オヤジ」たちは「オヤジ」なのか。「オヤジ」とは何者か。なぜ学生運動は挫折したまま存在自体が忘れられたのか。戦後の日本は何を目指し、何を失ったのかといったテーマを思索する。
もっと痛烈に響いてくるのは、こんな指摘かもしれない。この国は、バブルがはじけた時点で方向転換すべきだったのに、なぜできかなったのか。なぜいつまでも、「オヤジ」発想で、「発展と繁殖」を目指しているのか。「人工島」は容易に「東京オリンピック」や「大阪万博」や「カジノ構想」等々と置き換え可能で、30年前に構想されたとは思えないほどアクチュアルだ。