追悼する立場から追悼される立場へ

『読売』の記事;


広告批評」元編集長、天野祐吉氏が死去

 雑誌「広告批評」元編集長でコラムニストの天野祐吉(あまの・ゆうきち)氏が20日午前10時38分、間質性肺炎で亡くなった。80歳だった。

 告別式は本人の希望により行わない。

 東京都出身。博報堂などの勤務を経て、1970年にマドラ出版を設立。79年に「広告批評」を創刊し、テレビCMなどの広告を作品として批評するスタイルを確立し、糸井重里さんらコピーライターが注目されるきっかけを作った。

 同誌は2009年に休刊となったが、コラムニストとして「私説広告五千年史」など多くの著書があるほか、童話作家やテレビのコメンテーターとしても活躍した。02年には松山市立子規記念博物館館長に就任し、07年から名誉館長。
(2013年10月21日10時57分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20131021-OYT1T00231.htm

また、時事通信の記事;

天野祐吉さん死去、80歳=「広告批評」創刊のコラムニスト

時事通信 10月21日(月)8時52分配信

 広告批評というジャンルを確立し、広く社会問題について発言してきたコラムニストの天野祐吉(あまの・ゆうきち)さんが20日午前10時38分、間質性肺炎のため東京都内の病院で死去した。80歳だった。東京都生まれ。通夜、葬儀は本人の希望により行わない。
 創元社博報堂などを経て1979年「広告批評」を創刊し、編集長や発行人を務めた。くだけた文体でユーモアを交えながら、CMを通して世相を斬り、単なる商品紹介と思われていた広告を批評の対象にした。82年6月号で反戦広告を特集。「まず、総理から前線へ。」「とにかく死ぬのヤだもんね。」などのコピーが話題に。新聞や雑誌で政治、経済などについても幅広く論じた他、テレビのコメンテーターとしても活躍した。 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131021-00000021-jij-soci

広告批評』が「単なる商品紹介と思われていた広告を批評の対象にした」ということだけど、実はそれ以前から、定俗文化批判とか資本の陰謀を暴く的なノリの広告「批評」というのは存在していたと思う。また〈商品を売りたいという欲望〉を取り敢えず宙吊りにして広告を語るという態度についていえば、雑誌『広告批評』以前に、やはり『ビックリハウス』文化を考えるべきだろうとは思う。ところで、天野さんの『広告批評』が創刊される遙か以前に、津村喬が『広告批評』という雑誌を構想していたらしいのだが、津村版『広告批評』が実現していたらどういうものになっていたのだろうか。『ビックリハウス』と津村喬ということで、北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』*1を唐突ながらマークしておく。
嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

さて、天野さんのblogなのだが*2、最後のエントリー(「なださんのこと」(6月9日付け)*3では亡くなったばかりのなだいなだ氏*4を追悼している。『広告批評』といえば天野さんともに島森路子さんということなのだが、彼女が今年の4月に亡くなっていたことに今頃になって気づいた。そして、天野さんは島森さんを追悼しているのだった。
『毎日』の記事;


島森路子さん死去:「広告批評」休刊のわけ 天野祐吉さん明かす

2013年04月24日

 雑誌「広告批評」元編集長で、テレビ番組のコメンテーターとしてお茶の間に親しまれた島森路子(しまもり・みちこ)さんが23日午前1時30分、呼吸不全のため東京都世田谷区の病院で死去した。66歳。秋田県横手市出身。葬儀・告別式は近親者で行う。喪主は母タネさん。

 79年、天野祐吉さんと共に「広告批評」を創刊。同誌が09年に休刊するまで約200本手がけたインタビューは目玉となり、詩人の谷川俊太郎氏や作家の村上春樹氏、タレントのタモリら幅広い相手に切り込んだ。

 88年に天野さんから編集長を引き継ぎ広告ブームをけん引。マスメディアの中で巨大化する広告を通じ、好景気の中で肥大、多様化した消費社会の現場を精力的に紹介した。また1990年にフジテレビ「FNNニュースCOM」のキャスターを務めるなど、鋭く世相を読み解くコメンテーターとして人気を集めた。

 天野さんによると、島森さんは5年ほど前から体がしびれて筋力が衰える進行性の難病を患い、闘病していた。天野さんは月に1度の見舞いで、雑誌の記事などを話題に雑談を交わしていたという。一方、別の関係者によると、島森さんの筋力は年々衰えて、最近は会話や筆記も困難に。「頭がはっきりしているだけに、思いが表現できない歯がゆさが伝わってきた」という。

 「広告批評」の休刊は広告のウェブ化による市場構造の転換が主な理由だったが、天野さんによると「島森さんの病気も大きな理由だった。彼女なしでは成立しない雑誌だったから入院とともに幕を引いてあげたかった」と明かした。

 天野さんは、昨年ミリオンセラーになった阿川佐和子さんの著書「聞く力」を引き合いに「“聞く力”を世に知らしめた元祖は島森さん。女性ならではの繊細な言語感覚で、インタビューというジャンルをクリエーティブに昇華した」と多大な功績を称えた。

 ◆島森 路子(しまもり・みちこ)1947年(昭22)1月17日、秋田県生まれ。69年に立教大を卒業後、講談社に入社。子どものための百科事典や絵本の編集を手がける。広告プロダクションに移り「キャッチフレーズ3000選」などの編集にあたる。TBS「ブロードキャスター」のコメンテーターも務めた。著書に「銀座物語」(96年)、「広告のヒロインたち」(98年)など。
http://mainichi.jp/sponichi/news/20130424spn00m200016000c.html

それから、『朝日』への寄稿;

島森路子さんを天野祐吉さんが悼む

[掲載]2013年05月01日


 「広告批評」誌で同僚の島森路子がインタビューした相手は、優に200人を超えている。その対象は、鶴見俊輔さんや吉田秀和さんから爆笑問題ラーメンズまで、相手かまわずのように見えるが、選択の基準がなかったわけではない。
 それはただ一つ「自分が面白い」と思える人であることだ。急いでつけ加えておくとこの場合の「面白い人」とは「“いま”を正しく語れる人、あるいは“いま”をいきいきと体現している人」のことである。たんに「話題の人」というだけでは彼女は関心を示さない。そんなとき「だって、あの人つまんないもん」と彼女は言ったし、橋本治さんもそのせりふを何度か聞いたと書いている。
 その点で、橋本さんは彼女をインタビュアーである前にすぐれた編集者であると言う。そして彼女のインタビュアーとしてのすごさは、ときに自分を消して相手の一人語りのようにしてしまうところだと言っている。自分を消して、それでいて相手から引き出した話の中に、自分がちゃんと存在しているということだろう。
 実をいうと、ぼくもインタビュアーとしてはうまいほうだとうぬぼれていた。が、彼女の仕事を見て迷わず“廃業”した。無意識のうちにしゃしゃり出ている自分を見たからである。
 彼女がまとめたインタビュー原稿には、ほとんどの場合「拍子抜けするくらい赤を入れるところがなかった」と谷川俊太郎さんは言い、まとめは「ただ忠実であればいいというものではない。インタビューに自然に生まれる〈話体〉を〈文体〉に移すのは、耳から目への翻訳とも考えられる。〈翻訳者〉としての島森さんは、表には出ないが、影の実力者とも言うべき役割を果たしている」と書いている。話されている内容と一体になって、話している人の息づかいや感情の機微を文字に映しとるのは、技術というより感性の問題だろう。
 「広告批評」という雑誌を続けることができたのは、彼女の編集者としての力だけでなく、同時代のすぐれた人たちの「音声」を「文字」に変換して伝える言葉の仲介者としての彼女の力によるところが大きい。
 インタビュアーの仕事を軸に編まれた本が、いままでにあったかどうか知らないが、「広告批評」30年を総括するものとして「島森路子インタビュー集」全2巻を作ったことが、亡くなった彼女への何よりのはなむけになった。
http://book.asahi.com/booknews/update/2013050200001.html

あっという間に追悼する立場から追悼される立場に移行してしまったわけだ。
See also


残間里江子「4/23(火)島森路子さん逝く。」http://club-willbe.jp/zamma/2013/04/423-4.html
笠原ちあき「島森路子橋本治広告批評http://blog.honeyee.com/ckasahara/archives/2013/06/08/post-58.html


天野さんの著書でいちばん最後に買ったのは(それでも20年前以上だが)、文春文庫から出ていた『嘘八百! 広告ノ神髄トハ何ゾヤ?』と、その続編の『また、嘘八百!!』。この『嘘八百』シリーズはさらに大正篇、昭和篇も出ているのだが、そちらの方は何故か買っていない。