『ロード・オヴ・ザ・リングズ』を借りた

露西亜によるウクライナ侵略*1が始まって直ぐ、ウラディミール・ソローキン氏*2のエッセイを読んだ;


Vladimir Sorokin “Vladimir Putin sits atop a crumbling pyramid of power” (Translated by Max Lawton) https://www.theguardian.com/commentisfree/2022/feb/27/vladimir-putin-russia-ukraine-power


曰く、


In the final film of Peter Jackson’s The Lord of the Rings trilogy, when Frodo Baggins has to throw into the seething lava the cursed Ring of Power, the ring which has brought so much suffering and war to the inhabitants of Middle Earth, he suddenly decides to keep it for himself. And, by the will of the ring, his face suddenly begins to change, becoming evil and sinister. The Ring of Power had taken total possession of him. Even so, in Tolkien’s book, there’s a happy ending …
ソローキン氏が言及しているのは第3部の『王の帰還』だけど、ソローキン氏に触発されて、『ロード・オヴ・ザ・リングズ』*3のDVDを借りてきた。第1部を観て、第2部の『二つの塔』を借り出してきたが、まだ観てはいない。
蓮實重彦氏に言わせれば、「物語」というのは押し並べて〈宝探しの物語〉ということになる(『物語批判序説』*4)。しかし、『ロード・オヴ・ザ・リングズ』において、最終目的としての〈宝〉(「力の指輪」)は初めから見つかっている。物語の課題は〈宝〉(指輪)を破壊することである。この意味で、これは〈反‐物語〉と言えるのだろうか。また、政治思想的に読めば、『ロード・オヴ・ザ・リングズ』はアナーキズムを志向しているといえるだろうか。私利私欲のために「力の指輪」を使うというのは典型的なヴィラン仕草といえるだろうけど、所謂現実主義的な政治思想(例えば凡庸な社会主義者自由主義者)なら、理想実現のための手段として、或いは平和維持のために厳密な管理の下に「力の指輪」は使用されるべきだということになるのだろう。しかし、ここでは、「力の指輪」は世界にとってのみだけでなく、その所有者に対しても害を為す禍々しきものとして破壊されなければならないということになる。トールキンの小説が最初に上梓されたのが1950年代。『指輪物語』として日本語訳が刊行されたのが1973年。私が中学に入ったばかりのことだった。そして、実写映画化が21世紀に入ってから。50年近く、『ロード・オヴ・ザ・リングズ』に触れそこなってきたのだった。