或る「万引き」の話

承前*1

「マニュアル」的ということで思い出してしまった。
2002年に東京駅構内のコンビニで、30代の男性が500数十円分のパンやおにぎりを万引きして、これに気づいて彼を追跡したコンビニ店長が逆にナイフで刺殺されるという事件があった。その事件についての橋本治のエッセイに対する金井美恵子先生の突っ込み。『目白雑録』*2から


橋本治が〈「五百円ばかりのことで人が殺せるのか」と驚く〉のは当然のことで、この事件の犯人が警察に出頭した経緯を伝えるテレビのニュースでは「五百円殺人」という、ショッキングなようでもあり滑稽なようでもあるキャプションを使っていたのと同様の常識人的な感覚なのだろうが、私はこのニュースを見ていて、五百円くらいのパンだかおにぎりを万引きされたくらいで、何百メートルも「万引き犯」を追いかける店長というものがいる、ということに、変わってるよ、と驚いたのだった。
ニュース番組制作者にも、同じように感じた人間がいたらしく、そのコンビニエンスショップでは、以前商品のパンに針を刺した六十代のホームレスの女性が警察に逮捕されたことがあり、ホームレスの女性が店長に万引きの現場を見つかって厳しく叱責されたのを恨んでの犯行だった、という情報を伝えていて、さらに殺された店長の元警察官の父親が、息子は正しいことをしたのだ、と、そういうタイプの人間を知らないので、なんとも説明のしようのない、淡々として誇らし気な、とても言っておく他ない表情で語る映像も映されていた。
(略)五百円のパンを万引きした男を何百メートルも追いかけた店長に驚いた、というより、いわば、むっとしたのは、パンなんて売れ残ったら捨てる以外ないものじゃないか、という気持だったかもしれないし、パンに針を刺すというホームレスの六十代の女性の幼稚な陰険さには好意は持てないものの、そういった逆恨みを誘うほどの、厳しい叱責を、パンの万引きをした者に加える「正義感」というのは、私にはとても理解しがたい。というのが「五百円殺人」についての第一印象で、万引きをして追われると持っていたナイフで刺してしまう、というタイプの殺人事件は、様々なタイプのアメリカ映画の中で、正義の警官側からも貧困と暴力の関係といった構図の犯人側化からも、よく撮られるエピソードだな、こういうのは当然日本でも増えるだろう、という、実にノーテンキなものであり、だから、橋本治のコラムを読んで、橋本が代表している世間ではこう考えているのか、と、そのズレに、びっくりしたというわけだ。
捕まれば刑務所に入れられる、と思って追いかけてきた相手を刺す、という短絡思考はむろん常識的な思考ではないのだが、それを、〈この問題はどうあっても、「五百円の金はないがナイフはある」と考えていた男の、その意識にあるとしか思えない。/まともな社会人なら、「五百円」程度の金で人は殺せないだろう(略*3)。その金がない自分が情けないと思って、五百円の工面をしようと思うだろう。その工面が出来なくて盗みに走ったのなら、それが露見した瞬間に「恥ずかしい」と思うだろう。だから、たとえ逃げたとして、追ってくる相手は殺さないだろう。(中略)*4ナイフというものを、まるで「私製のクレジット・カード」のように行使した。「ナイフがあれば、五百円の金がなくても社会生活が送れる」とでも考えていたのかのようだ〉と分析(?)し、さらに続けて、〈その程度の金がないというのは、人の命を奪うにたる「切実さ」にはなら〉ず、それは「社会人」にとって「死にたくなるほどの恥ずかしさ」でしかなく、〈どうしてこの程度の人間が、「社会人」として生きて来られたのかを考えて、それを放置して来た日本社会の愚かしさを思〉ってしまうのにいたって、桃尻娘がなんで村上龍にヘンシンするのだ?*5 と唖然としたのであった。(pp.75-78)
目白雑録 (朝日文庫 か 30-2)

目白雑録 (朝日文庫 か 30-2)

ところで、万引きを店員が追いかけるという場面は2回ほど目撃したことがある。そのうち1度は銀座のプランタンの裏辺り。それはとても楽しい瞬間であった。街の空気が一変し、店員と一緒になって走り出す奴、(私みたいに)呆然と眺める奴が出てきて(さすがに、犯人を庇おうという奴はいなかったが)。この面白さは何かということをいうためには、〈走る〉ことについての人間学的考察を経由しなければならないだろう。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090814/1250268102

*2:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081203/1228280406

*3:引用者による省略。略した部分は金井先生によるコメント。

*4:金井先生による省略。

*5:太字は原文。