「声を出す」(メモ)

中島京子*1「家族の解体と再定義の物語」『毎日新聞』2020年12月12日


星野智幸*2『だまされ屋さん』の書評。
少し切り抜き;


小説が肯定するのは、「自分の声を発する」という行為だ。
最初のうちはみんな、声を出すのがうまくない。やむにやまれず発せられる声はしばしば悲鳴に近く、聞く者を萎えさせ傷つけもする。それでもだんだん、なんとか言葉を出せるようになり、自分の声を獲得したことに安らぎと自信を覚える。
それができるようになるのは、聞き手がいるからだ。聞き手は辛抱強くなければならない。遮って話し出したり、耳を塞いだりしては元も子もない。登場人物からはしばしば、「私の声を奪うな」というメッセージが発せられる。だけど、人間、身内だと思うと我慢がきかなくなる。近距離で聞く声はうとましい。そこで登場するのが「他人」だ。巴の家に現れる夕海、秋代の家に現れて「かぞくになっちゃいましょうよ」と妙なことを言いだす未彩人は、身内ではなく距離があるゆえに、よい聞き手になれる。秋代が未彩人に依存していく姿は、どこか危なっかしいけれど、人は誰も聞き手を必要としているという真実を突く。