沖縄と東北

鈴木英生*1「「そばにいるよ」の贈り物」『毎日新聞』2021年3月3日
小国綾子*2「「入れ子」の差別に抗して」『毎日新聞』2021年3月3日


「困難を生きる女性たち」ということで、前者は上間陽子さんへの、後者は山内明美さんへのインタヴュー。
先ず、上間陽子さんの語り;


コロナ禍で、私の住む沖縄では、「フードパントリー」(余剰食品の貧困層への配布)が流行した。東京では、この間、自己責任論が強くなったと聞くが、沖縄の場合には、共助がはやった。対照的な現象だが、共助の流行も自己責任論と同様に批判されるべきだろう。困っている人のところにお米やお菓子が届くのは、もちろんいいことだ。ただし、それだけで貧困は解消しないし、むしろ、公的支援の不十分さの目くらましになりかねない。

元々、沖縄の家父長制的なコミュニティーには、女をしゃべらせず、男の付属品のようにして成り立ってきたと思う面がどうしてもある。さらに、女性が受けてきた暴力、性暴力と貧困には、直接にも間接にも、米軍基地が影を落としている。
私は、米軍嘉手納基地の門前町沖縄市で育った。沖縄の本土復帰の年に生まれたが、当時は米兵の白人街と黒人街があり、互いが相手の街に迷い込めばリンチされたという。米軍機の爆音の下、性産業が身近で住宅地と夜の街の区域分けもさほどなかった。学生の頃は夜遊びもしたが、鍵を指の間に挟んで握り、米兵に連れ去られそうなときは抵抗できるようにしていた。実際に使ったことはないが、これが常識だった。「コザ(現沖縄市)の子は、楽しく遊んで楽しく大人になる」と思われていたが、実際の地域は厳しかった。私の街で、同級生の女の子たちは、あっという間に大人にさせられた。

ずっと怒り、ずっと絶望しているが、やるべきことは次々に出てくる。当事者の相談に乗り、トラブル現場に駆けつけていると、「調査対象者にここまでするのか?」と言われることもある。自著「海をあげる」に書いたが、私が落ち込んだとき友人たちによって、私は「誰かがそばにいる」という感覚を持てた。その感覚を私も、少しでも手渡したい。

山内明美さん曰く、


東日本大震災から10年、お金はなくとも海と土、地元のつながりさえあれば子供を育てていける、という地域の力が衰退したように感じる。単にお金がないことは貧しいこととは違う。しかし本当に貧しくなるのではないか、そんな懸念がある。
復興の名の下、東京からやって来た役人やゼネコンは土地の漁師たちを置き去りにし、浜の将来図を描いた。漁師たちの自尊心を奪い、被災地の自治力をそいでいった。
三陸では、震災とそしてコロナ禍によって、地域格差、男女差別、外国人差別、貧困など複雑な”入れ子”のような差別構造がより明確化したように見える。(後略)
「農業や漁業の後継者不足を背景に、東北地方は多国籍化が進んでいる」;

思えば1980年代半ばに日本で最初に「外国人花嫁」を導入したのは山形県の町だった。フィリピン女性の「花嫁」からは自殺者も出た。私のように都市に出た女の代わりに*3、外国の女性が「花嫁」にされ、ケア労働を担わされている。

この10年間、「東北」が”ごみため”にされ、じゅうりんされている感覚がずっとある。原発再稼働の動きや、青森県に核のごみが持ち込まれる計画を聞くたび、痛みが再燃する。個人の傷ではなく、東北の受けた「PTSD心的外傷後ストレス障害)」のような深い傷がある。
小学校6年の時、私は父から一枚の田んぼを与えられ、米を作り始めた。高校生だった93年、平成の大冷害に直面した。例年600キロ収穫できる田から20キロしか取れなかったとき、恐ろしく自信を失っている自分がいた。村全体が元気を失っていた。土は私たちの血肉だ。だから凶作が直接メンタルに作用したのだろう。
津波で多くの命が奪われた時、海や土と共に生きる人々の受けた傷がいかに深かったを今、思う。震災と原発事故で問い直されたはずの「東北」と東京、つまり「まん中」との関係性は今も変わらない。