鈴木由加里『「モテ」の構造』*1から。
この本の初版は2008年である。また、著者が「男子大学生」という場合、その当時著者が教えていた、法政大学文学部や東洋大学社会学部を基準にしているのではないか。
確かに、大学で男子大学生はどんどん小綺麗になり、身繕いをする道具を持っている男子は増えている。あぶらとり紙やリップクリーム、デオドラント、ヘアケア製品その他諸々の商品情報についても詳しい男子が多い。普通の男子小学生の、芸能人のようなシャギーヘアや、ドラッグストアやコンビニのメンズコスメ用品の前で、どのヘアスタイリング剤を選ぼうかと思案しているほほえましい中学生男子の姿も珍しくない。
しかし、男性が女性と同じようなキレイ文化の中に生きているかというとそうでもない。
例えば、ファッションや男の小道具などについての専門雑誌は、「キレイ」というよりも「男のファッション道」「男のおしゃれ道」という精神修養のような雰囲気が感じられるのである。
「見た目」を気にするにしても、男性と女性とでは、生きているぶんかが異なり、ジェンダー差が出てくるのは当然のことだろう。男性にとって、「見た目」と「モテ」の関係は、想像する以上にデリケートな問題を含んでいるのかもしれない。(pp.9-10)
男性向けのライフスタイル誌などの男性の身仕舞いやおしゃれについての言説を見ると、「キレイ」は第一目的とならずに、異性からの「モテ」を経由してファッションや「キレイ」に行きつくという迂回回路が存在していることに気づかされる。「キレイ」を第一目的にしてよいのは女性だけであり、男性にはふさわしくないことだという、目に見えない規則があるかのようである。
一方、そのような雑誌に出てくる「モテ」にしても、どうも「恋愛」そのものと同義ではないようである。恋愛ができない、ということと、「モテない」ということは重ねて論じられることが多いが、両者は異なるものだろう。一方的に恋い慕う片思いも恋愛に含めるかは論が分かれるところだが、「恋愛」とは、お互いに恋い慕う感情の成立とみて間違いないだろう。「モテ」は、そのような相互的なものではなく、不特定多数から「一方的に思いを寄せられる」という状態を指しているようである。この「モテ」に価値を置き。「見た目」を気にするという図式は恋愛の入り口にはなっても、恋愛そのものとは異なると考えられるのである。(p.10)