砂糖はよく掻き混ぜろ

承前*1

先週の『毎日新聞』に小国綾子「「ネット世論」は世論にあらず」(1月22日夕刊)という記事があった。「日本未来の党」の「オンライン調査」や「ネット投票」における支持率とマス・メディアの與論調査や総選挙での得票とのギャップを訝るのは、諺でいえば、


群盲象を撫でる
木を見て森を見ず


ということになる。或いは、珈琲の砂糖はちゃんと掻き混ぜろ! ということだ*2
その記事には、菅原啄氏のコメントが載っているのだけれど、それによると、麻生太郎小沢一郎のネット上での「人気」は「100人に満たないごく少数の人々が掲示板に何度も繰り返し書き込むことで印象付けられた側面がある」。とても興味深い。またもう少し詳しく知りたいと思った。例えば、どのような仕方で「100人に満たないごく少数の人々」を同定したのか、とか。

さて、最近のホット・トピックの一つである「体罰」問題を巡って、1月27日の『毎日新聞』には、


松永怜一*3「名選手より人育てよ」
阿江美恵子*4「しごいても成績に限界」
結城忠*5「「愛のむち」野放しするな」


という3本のエッセイが掲載されている。
阿江さんの文章から;


中学、高校レベルでは、指導者が厳しく型にはめた練習をすると、確かに競技力は伸びる面がある。強制的にたくさん練習させることで体力がつき、技術も向上する。結果的に成績が上がり、「全国大会に出られた」「地区大会で優勝できた」などの成功体験につながる。そして生徒は「あの厳しさを乗り越えたからこんな経験ができた」と錯覚し、感謝の気持ちさえ持ってしまう。保護者も口を出せなくなり、指導者による「王国」が形成され、指導法に疑問を投げかける雰囲気が失われていくのである。

以前話を聞いたバレーボール部員は厳しい指導を受け、「体罰なんて当たり前ですよ」と語っていた。しかし、よくよく聞くと、一つのプレーごとに指導者の顔色をうかがっていたという。「ミスをしたら練習後に怒られるから、先生がどう思ったかが気になって仕方ない。習慣になっていた」と理由を語っていた。そこには自信に満ちた伸び伸びとしたプレーはない。体罰を伴う指導はある程度のレベルまでは結果を引き出せるかもしれない。しかし国際レベルまで見据えた時に、そのような選手を育てることが果たして良いだろうか。
(特にブラック企業の)会社員が顧客やクライアントよりも上司の顔色を窺う、或いは政治家が有権者を理解するよりも〈党代表〉の胸中を忖度しようとする*6ということはよくあることだろうけど、そこでも似たような心的・社会的メカニズムが作動しているといえるだろうか。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20121210/1355105222

*2:私は珈琲に砂糖を入れる習慣はないけど。

*3:元法政大学野球部監督

*4:東京女子体育大学。スポーツ心理学。

*5:白鴎大学。学校法学。

*6:See eg. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100905/1283681455 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20111201/1322750851