「難解の「絶壁」を見事に登って」

磯田道史*1「詩文の解析から極北の文人に迫る」『毎日新聞』2020年10月17日


高橋博巳『浦上玉堂 白雲も我が閑適を羨まんか』という本の書評。


玉堂研究が重要なのはなぜか。かつて加藤周一は玉堂を論じていった。「『文人』たちは、外国の詩文書画の教養という点で大衆から離れていたと同時に、詩文書画に打ちこむという点で武士の倫理化や規範からも離れていった」。近世も後半になると、この国に「文人」があまた生じた。彼らは高い東洋的教養をもち、徳川の世のイデオロギーからの逸脱をはかった。日本中で横につながって文人のネットワークを結び、体制の外で密かに「横議」した。閉ざされた日本をこえた世界の知識を語り合い、次世代への知的準備をしたのである。琴を弾き詩書画で遊びながらである。徳川時代を破壊したのは蘭学や黒船来航だと思われているが、実はもっと根が深い。近世後期に、津々浦々に生じたこの文人の動きこそが維新や近代への胎動を加速させた面がある。
玉堂*2はこの文人のチャンピオンで有り極北である。その高い芸術性は国際的にも評価が高い。中国額の内藤湖南は玉堂を「天才」といい、建築家ブルーノ・タウトも「近代日本の生んだ最大の天才⋯ゴッホに比することができる」とまでいった。

しかし玉堂は研究が難しい。玉堂研究の登山道は三つあり、第一は絵画作品から迫る美術史・芸術史で河野元昭・小林忠両氏の研究がある。この分野では岡山県立美術館の守屋收氏が総合的研究で優れ、他の追随を許さない。近年、琴の音楽史から武内恵美子氏が迫っている。第二は、詩文から思想の交流を攻める思想史で、本書はこれにあたる。第三は、近世史の登山道で書簡など古文書から藩政史・社会史などとして玉堂に迫るものである。(後略)

今、玉堂研究は難しい時期である。玉堂は全国を旅した。各地に書簡・作品などの足跡が残り、現在、その集成作業がすすんでいる。新出の書簡などが出そろう直前であり、今後は第三の近世史の面から、玉堂研究が進められそうである。玉堂が岡山の鴨方藩を脱藩して「文人」となっていった過程は、藩の政治史からも迫る必要があろう。(後略)