躁鬱だった

鈴木英生*1「そこが聞きたい うつと重なる平成の風潮 歴史学者・與那覇潤氏」https://mainichi.jp/articles/20180528/ddm/004/070/033000c


那覇潤氏*2が大学を辞職されていたのは、双極性障害*3のためだったのね。


うつになった当初、インターネットなどの情報がまったく参考にならず、回復後に専門家の著作と照合すると、実際に間違いばかりでした。たとえば、一般にうつの主症状とされるのは「意欲の低下」ですが、むしろ思考力や読解力などの「能力の低下」が大きく出ます。IQ(知能指数)テストを受けると、明確に数字でみえるくらいに。

 現代の社会が能力主義で動いている以上、病気による能力の低下に突然見舞われたら、生きる意欲を喪失して当たり前。つまり、うつが奪うのは能力で、意欲を奪っているのは社会だともいえます。平成の競争社会の流れに乗って本を書いてきた者として、そのことをきちんと反省したかった。

通常の意識状態の人間は「言語」を使いこなせない;

私が経験したうつ状態は、双極性障害(そううつ病)に伴うものだと診断されていますが、この病気は「言語と身体のバランス不全」ではないかという実感があります。軽いそう状態のときは、自己が言語の方へ引っ張られ、読書した内容をメモなしでも、ページ数に至るまで記憶できる。逆にうつ状態では、身体を無視しては何もできないことを思い知らされます。はうようにしないと洗顔や入浴にも行けず、自分が書いた本ですら、読んでも論理の展開を追えなくなるんですね。

 つまり、言語や論理に徹してものを考えるのは、ある種のそう的なパワーを必要とする、特殊な営みだと。


言語には、身体的な実感を伴わないと人々を説得できない弱点があり、身体には言語に比べ、論理的な整合性や時代を越えた継承の面で欠陥がある。双方が、たがいに補いあうような関係を考えなくてはいけません。

 いま心配なのは、言葉のプロであるはずの知識人や政治家が、あまりにも安易に身体にすり寄ることです。一般の生活者は身体感覚をそのまま表現して「日本死ね」「自民党感じ悪いよね」「私もだ(MeToo)」でいい。しかしその内実を言語で精緻化し、共感できなかった人にも伝わる形に翻訳する役割の人たちが、本来の仕事を放棄して一緒に踊っている。流行のフレーズに「飛びつく速さ」ばかりを個人の能力の証明のように競う競争主義が、言葉の賞味期限を縮め、平成の論壇を貧しくした。能力差を「勝ち負け」で捉えるのではなく、むしろ補いあう契機にする、発想の転換が必要です。

 うつから回復する過程で、自分が書いた文章がもう一度読めるようになったとき、「身体で感じるだけではなく、言葉にして残しておくこと」のありがたさを痛感した。もちろん病前よりは身体も大事にしたいけど、言語が機能しない社会には日本を戻したくない。それが戦後の遺産を受け継ぎつつ、平成を越える道だと思っています。