「リスクを許容する胆力」(磯野真穂)

鈴木英生*1「リスク許容する「良識」を」『毎日新聞』2020年4月29日


医療人類学者の磯野真穂さん*2へのインタヴュー。
少しコピペ;


先日、新型コロナの患者もいる病院の看護師に話を聞いた。普段から、病状の落ち着いた患者の転院対応をしている人だ。元新型コロナ陽性患者のPCR検査(遺伝子検査)が3回、陰性だった。ところが、転院先がなかなか決まらない。ある病院には「10回くらい陰性なら引き受けを考える」と言われたとか。
不条理だと思うが、「一人の感染者も出してはいけない」という倫理がこれだけ強くなると、あながち誤った判断とも言えない。毎回検査をしても万が一を完全には排せないからだ。医療機関にとって、新型コロナ患者の受け入れは、医学的にだけでなく倫理的にも、リスクになっている。仮に人工呼吸器の数が足りていても、社会の求めるゼロリスクが医療崩壊を引き起こしかねない。
普段の私たちは、ある程度のリスクの許容ができている。インフルエンザを友人にうつされても、その友人を責めないし、未知のウイルスを誰かが持っている可能性を避けるために友だちと会わない、といった生き方は選ばない。新型コロナは恐ろしい側面があるが、(中国のデータでは)元々の疾患がある人以外の50代以下は、致死率が1%もなない。許容できる範囲であるはずだ。

感染して自覚せず人にうつしてしまうのが怖い、という気持ちはわかる。ただ、その恐れが翻って極端な自己責任論を生んでいないか。現代社会は、「健康であれ」という道徳の圧力が強い。喫煙者や太っている人は、「自己管理能力が低い」とされて肩身が狭い。志村けんさん*3は、ヘビースモーカーだったことが注目された。感染した著名人が謝罪をする場面も、いくつか報じられた。感染は「本人い問題があったから」とみなされ、感染者は、まるで「人に感染せる可能性がある加害者」扱いである。

毎日、各国の死者数が報じられて、まるで、死者を増やさないことは国の威信の問題であるかのようだ。新型コロナ対策に役立たないものは、すべて「不要不急」と言わんばかりである。
しかし、新型コロナに奪われる命もあれば、「不要不急」として奪われる外食産業の人たちの生活もあり、その先での倒産や自殺さえありうる。一般的にも、「不要不急」の雑談や会食の場が失われて、家から出ない生活が続けば、アルコール依存症*4ドメスティックバイオレンス(DV)*5が増えるのは当然だろう。(新型コロナ関連の)統計が「世界」を殺しているようなものである。

新型コロナは、誰もが感染しうる。つまり、誰もが「加害者」になる可能性は絶対にある。この前提で、「ここまでは許容できるよね」という線をつくる。新型コロナがあぶりだした今迄の社会的な問題点を見直さず、「収束*6さえすれば安全」といった思考を続けていたら、ますます窮屈になるだろう。まずは、現状に少しでも違和感を持つ人たちの声が、ある程度の大きさで聞こえてくるようになればいいと思う。
「リスク」をクールに受容できるかどうか、このことによって、〈強者〉と〈弱者〉の間の線が引かれる。「リスクを許容する胆力」ということは〈強者〉になるということだ。みんなが〈強者〉になれる途というのを指し示すことはできるのだろうか。極端な「ゼロリスク」指向の背景として、現代社会において「不条理」を正当化する文化的(象徴的)メカニズムが機能していないのではないかと考えることはできるだろう。一方で、これは世俗化(世界の脱魔術化)ということに関係しているのではないかと考えたりもするのだろうけど、わざわざ神や聖に言及せずとも、私たちは昔から、運のあるなし、運の良し悪しという準拠枠を使って「不条理」をやりすごしてきた筈なのだ*7。ところで、「リスクを許容する」能力を英語で表現すれば、toleranceであろう*8。toleranceは一方では「寛容」と訳される(というか、こっちの方が主流の用法)。「リスク許容」の問いは寛容性の問いであるということも言えそうである。