久々の「カーゴ・カルト」

真鍋厚「「日本死ね!」ブログが予言した日本 自己責任論でがんじがらめ」https://withnews.jp/article/f0190923001qq000000000000000W0bq10701qq000019840A


先ず2016年に一世を風靡した 「保育園落ちた日本死ね!!!」という増田*1について、「そもそも五輪開催に巨額の税金を湯水のごとく流し込んでいるにもかかわらず、国民が切実に必要としている「保育園一つ」作ろうとしない、そのための保育士の処遇改善に力を入れようとしない、日本という国の「異常さ」を告発しているのである」という。
そして、オリンピック。


あえて辛辣(しんらつ)な見方をすれば、今回の五輪には「あの素晴らしい日本を、もう一度」という願望に突き動かされた招致だったのではないだろうか。

それは、国レベルで財産を湯水のように使う「国家的蕩尽(とうじん)」とも言える行為と言える。「国富を使い果たす」ことによって1964年の華やかな戦後日本の復活劇を〝再上演〟し、いわば高度経済成長に象徴される活力と繁栄を呼び込もうとしているかのようである。

一連の五輪招致に通じる行為として思い浮かぶのは、神々や先祖の霊が飛行機や船などを使って〈積み荷=富〉をもたらしてくれると考え、そのための飛行場をほうふつとさせる施設などを一生懸命整備したとされるカーゴ・カルト(積荷信仰)だ。

19世紀のメラネシアで発生した、この現世利益的な信仰の根底にある思考は、先進国に普遍的な「右肩上がりの時代」の記憶を文化的に模倣する行為に似ている。映画『ALWAYS三丁目の夕日*2の大ヒットやレトロテーマパークの活況が分かりやすい例だ。

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カーゴ・カルト」という言葉を久しぶりに見た。でも、「カーゴ・カルト」という言葉をこういう文脈で使うことが妥当なのかどうかは若干疑問ではある。オリジナルの「カーゴ・カルト」において表現されているのは、近代、帝国主義、白人、テクノロジーといったものの両義性だろう。また、近代、帝国主義、白人、テクノロジーという外在的なものを、自分たちの側のもの(先祖や神々)として無理矢理内在化することによるアイデンティティの防衛*3。さらに、「カーゴ・カルト」の特徴の一つとして、只管待つという徹底的な受動性がある*4
そういえば、2010年に次のようなことを書いていたのだった;

6月に北朝鮮への「帰国運動」(北送)に関するテッサ・モリス=鈴木さんへのインタヴュー*5を読んだとき、「帰国運動」或いは北朝鮮側のプロパガンダ在日朝鮮人の人々の間で信憑性(plausibility)を持ってしまったのかということは、日本人でも伯剌西爾における敗戦直後の「勝ち組」の運動を参照すれば理解可能なのかも知れないと思ったのだ。
「勝ち組」運動の研究書として最初に読んだのは前山隆先生の『移民の日本回帰運動』だったが、先ず問題は伯剌西爾日本人社会における社会階級に関っていた。少数の「負け組」は正確な情報へのアクセスが可能な、相対的に高学歴で経済的にも成功したエリートだったわけで、「勝ち組」運動には階級闘争の側面があった。また、これは北朝鮮への「帰国運動」とも共通するところだろうけど、「勝ち組」運動には千年王国的とも言い得る宗教性があった(カーゴ・カルト的な側面もあり)。差別と貧困の中で突如ユートピアとしての〈日本〉が幻想的に輝きだしたのだ。そもそも伯剌西爾移民は棄民政策であり、自らが〈日本〉に棄てられた存在であったにも拘らず。そして、日本から船が迎えに来て、ユートピア=祖国に帰還することができると信じられた。因みに、前山先生によれば、「勝ち組」が伯剌西爾社会に復帰するための媒介というか受け皿になったのは、生長の家などの日本宗教であったという。また、小栗康平の映画『伽倻子のために』もヒントになるかとは思う。
https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20100905/1283706558
移民の日本回帰運動 (NHKブックス (418))

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小栗康平監督作品集 DVD-BOX

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話を 「保育園落ちた日本死ね!!!に戻すと、そのような状況を招いたのは、社会変動によって育児を巡る地域社会やイエにおける「相互扶助」が機能しなくなったにも拘わらず「社会問題」となることなく、個人の「自己責任」へと回付されてしまったことである。

周りに頼れる人がいないコミュニティーの空洞化などで、お隣さん同士が助け合う「相互扶助の関係性」が失われた。

大家族の中で子育てする時代は過去になり、都市部で暮らす共働きのような世帯は、公的サービスではまかなえない家事・育児を、自らお金を出して負担を補いアウトソーシング化していく。

当然、すべての人が家事・育児のアウトソーシングができるわけではない。それなのに、本来なら国や自治体にプレッシャーをかけて取り組ませるべき「社会の問題」だったことを、いつの間にか「個人の問題」として矮小(わいしょう)化させたのは、実は、私たち自身だったのかもしれない。アウトソーシングできない=時間が取れない・お金が払えないことを「自己責任」の枠組みで捉え自分たちのせいにし、広く国民で議論すべき「政治の問題」として取り上げることを怠ってきた。