「難解言語」など

承前*1

楊逸という方の芥川賞受賞を巡る『産経』の論説。私は当該の作品を読んでいないので、それについてコメントすることはできない。この論説については、既にkmizusawaさんが「揚げ足を取」っている*2


【主張】芥川賞に楊さん 日本文学に大きな刺激だ
2008.7.17 03:35


 第139回の芥川賞に中国人の楊逸(ヤンイー)氏の「時が滲(にじ)む朝」が選ばれた。

 楊氏は中国ハルビン市生まれで、昭和62年に来日してから、日本語を習得した。日本語を母語としない外国人が芥川賞を受賞するのは初めてだ。日本文学史上の快挙といえる。

 受賞作は、1989年の天安門事件と同時期に地方の大学生となった中国の青年たちの深い挫折を描いた作品だ。選考委員の高樹のぶ子氏が「国境を越えて来なければ見えないものがある」と評価したように、日本という外国から見た中国の青春群像を淡々とした文章で描いている。

 日本語は、世界でも有数の「難解言語」といわれる。繊細な綾(あや)や微妙な言い回しがあり、たんに日本語を習得しただけでは、文学の水準に達する作品を書くことは容易ではない。楊氏も受賞の会見で、「行き詰まると中国語に切り替えて考え、それを日本語に訳す」と語っている。

 受賞作には、奇妙な言い回しがないわけではない。「黒い眸は泉に落ちた黒い大粒のぶどうの如くに」「コーラでもぶっかけられたかのような未曾有の爽快感」といった大げさな比喩(ひゆ)は、日本人の作家は決して使わないであろう。

 日本語を母語としていない外国人作家としては、米国人のリービ英雄氏が野間文芸新人賞、スイス生まれのデビット・ゾペティ氏がすばる文学賞を、それぞれ受賞している。逆のケースとしては、5歳の時に渡英し、英語で書いた作品が英国で最も権威のあるブッカー賞を受賞したカズオ・イシグロ氏がいる。

 母語ではなくても、語学の習得能力と文学的な才能さえあれば、文学として堪えられる作品を書くことはできる。と同時に、文学そのものの間口を広げることにもなることを示している。

 最近の日本文学は、村上春樹氏ら一部の例外を除けば、いたずらに難解で、奇をてらったような作品が目立つ。文芸雑誌を読む若者は少なく、小説部門の売れ行きの上位は極端に短い文章を連ねた「携帯小説」に占められている状態である。

 それだけに楊氏の描いた青春群像は、今の日本文学には見られない新鮮さに満ちている。今回の受賞は文学を目指す日本の若者たちにとって、大きな刺激となるはずだ。楊氏の今後の精進と活躍を期待したい。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080717/acd0807170336001-n1.htm

「日本語は、世界でも有数の「難解言語」といわれる」云々。バスク語について、世界で二番目に頭がいい存在者、すなわち悪魔でも歯が立たなかったと誰かが言っていなかったっけ? それはともかくとして、菅原和孝氏(『ブッシュマンとして生きる』)が「世界で二番目に難しい言語」といったブッシュマンが使用する、「舌打ち」を多用する「グイ語」(pp.17ff.)はどうだ。音韻体系の複雑さだけでなく、「人称代名詞の精密さ」について、菅原氏は語る;

グイ語には、一人称、二人称、三人称のすべてについて、性(男のみ、男女、女のみ)及び単数・双数(二人だけ)・複数(三人以上)の区別が完備しているのだ。しかも、一人称の双数と複数には「包含」(聞き手を含む)と「排除」(聞き手を含まず)の区別まである。日本人もこの人称代名詞を使えれば、飲み屋で男女複数が酒盛りしているときに「ねえ、ぼくと君の男女二人だけで、どっかに消えない?」とか言うのもおちゃのこさいさいであろう。なにせ、「ぼくと君の男女二人」は、たったひとこと〈アケビ〉と言えばわかってしまうのだから。グイ語にどっぷりとつかった生活から、日本語や英語に切りかえるとき、私はその人称代名詞の不完全さにいらだちを感じてしまうことがよくある。(pp.20-21)
さらに、それに続く

西欧からの植民者たちが残した文書には「ブッシュマンのことばは動物の鳴き声に近く、人間の言語とは認められない」といった見解がしるされている。ブッシュマンを「人間以下の野獣」とみなすこうした偏見が、数世紀にわたる虐殺と迫害を正当化したのである。異質な言語のなかに隠されている精緻さを認識できないがゆえに、その言語を劣ったものとみなすことこそ、もっとも野蛮な無知である。(後略)(p.21)
という箇所も引用に値するだろう。
ブッシュマンとして生きる―原野で考えることばと身体 (中公新書)

ブッシュマンとして生きる―原野で考えることばと身体 (中公新書)

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070227/1172596850でも書いたように、英語その他の外国語で小説を書く中国人は多い。それと比べて、外国語で書く日本人が少ないということはひとつの興味深い比較文学的課題ではあろう。
また、

最近の日本文学は、村上春樹氏ら一部の例外を除けば、いたずらに難解で、奇をてらったような作品が目立つ。文芸雑誌を読む若者は少なく、小説部門の売れ行きの上位は極端に短い文章を連ねた「携帯小説」に占められている状態である。
という箇所はどうなのだろうか。現代日本文学って、そんなに〈前衛小説〉花盛りなのか。
なお、「コーラ」の比喩については、『ALWAYS 三丁目の夕日』を観た人にはわかると思うが、昭和30年代の日本人にとって「コーラ」が持つ意味と21世紀の日本人にとって持つ意味が違うように、1980年代の中国人にとってはまた特別な意味を持っていたということではないかな。
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