文学にとっては吉?

承前*1

大月隆寛ネタ*2


【断 大月隆寛】国籍法「改正」のもたらす未来
2008.12.5 03:30


 国籍法の「改正」が国会を通過しました。何か奥深い理由でもあったのか、拙速を絵に描いたようなザル審議で、メディアも通りいっぺんの報道しかしないまま。大方は何が起こっているのかわからないかも。

 「過疎」ということが言われ始めたのは高度成長期半ばと記憶します。それから40年あまり、今や「限界集落」と言葉も無残に変わり、「ムラ」は最終的にその姿を消し始めている。「ムラ」を最終的に絶滅に追い込み、「農」に代表される一次生産の場を考えなしにやせ衰えさせ、核家族化と少子化で減った労働力は付け焼き刃の外国人を「新」日本人に仕立てて埋め合わせ、一方、「先住」日本人たちはというと、列島を覆い尽くした「都市」の高度消費社会コロニーにおびえながらたてこもるしかなくなり、老いた少数派になってゆく…考えたくないですが、しかし、この「改正」国籍法後の日本を静かに想像してみると、最悪、そんな近未来すら思い浮かんできます。

 「ホワイトアイランド」と呼ばれたのは植民地時代、アフリカ諸国の都市。白人がたてこもるコロニーとしての「都市」と、それを取り巻く現地のネイティブたちという構図で、そこでは文化や民族問題は同時に貧困、階層問題でもありました。それと同様、わが国でも早晩、外国人含めた「新日本人」たちとの間に、「都鄙(とひ)」そして「内地雑居」といった古くて新しい問題が、21世紀的な文脈でもう1度浮上するはず。国籍法「改正」を支持した諸センセイ方、それに対する目算と覚悟はもちろん、おありですよね?
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081205/acd0812050331002-n1.htm

まあ、民俗学者が「ムラ」の危機を憂慮するのは理解できる。それは自らの伝統的なフィールドの消滅の危機だろうから。とはいっても、大月って、ムラに行って、民俗宗教とかを調査するといったノリの民俗学者だったか。
限界集落*3という言葉もあるが、そこに到る過疎化という現象は工業化というトレンドに伴うものであって、花じゃなくてムラ人はどこ行ったのかといえば、例えば『ALWAYS 三丁目の夕日*4でも分かるように、都会へ行って職工になったわけだ。大月いうところの「付け焼き刃の外国人」は都会へ行って職工になったムラ人の穴を埋めるのだろうか。
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さて、興味深いのは、大月が殖民地の白人に同一化しようとしていること。ここには相当な捻れがあるのだが、今は詳説せず。殖民地の白人ということで、ちょうどフォースターの『インドへの道』とかマルグリット・デュラスの『インディア・ソング』を思い出したのだが、そのような作品たちが産み出されるのであれば、大月がイメージする日本の未来というのは、日本文学や日本映画にとっては吉ということになるか。
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しかし、大月がイメージするようにはたしてなるのか。外国人労働者=底辺というようなイメージがあるけれど、「白人がたてこもるコロニーとしての「都市」と、それを取り巻く現地のネイティブたちという構図で、そこでは文化や民族問題は同時に貧困、階層問題でもありました」というように単純な構図は描けないだろう。もっと斑な構図。(国籍やエスニシティを問わず)エリートと(国籍やエスニシティを問わず)プアが(同じ都市の中で)入り混じる構図。そのような構図の方が少なからぬ人々にとってはおぞましかったりして。
ところで、大月は「内地雑居」という明治な言葉を持ち出しているけれど、それだって、群馬県太田市にしても新宿にしても、勿論様々な軋轢や矛盾を伴いながらだけれど、既に長らく行っているのであって、何を今更! という感じはする。