『点と線』の時間感覚とか

日本では3月発売の筈の『点と線』*1のDVDが中国では何故か既に売られているというのは、あの「4分間」と同様の〈謎〉ではあろう。
さて、『点と線』も『ALWAYS 三丁目の夕日*2と同様の〈昭和30年代ノスタルジー〉の一環として受容されたということはあるのだろうか。この場合、〈昭和30年代〉の再現は『ALWAYS 三丁目の夕日』以上に大変だった筈だ。とはいえ、〈昭和30年代〉、特にこのドラマの舞台となった1957年(昭和32年)は私が生まれてもいない時代なので、その再現の出来栄えを云々することはできない。ただ、桜田門の警視庁と新橋のガード下までの距離的感覚はちょっと近すぎるのではないかとは思った。
このドラマを視て、先ず感じることはビートたけしの役者としての演技力であろう。というか、たけしも含めて、市原悦子宇津井健樹木希林小林稔侍、橋爪功竹中直人柳葉敏郎と、中高年の役者の存在感が目立つ。そのせいか、高橋克典を初めとした若手たちはたんに一生懸命仕事してるなとしか感じられなかった。
〈昭和30年代〉に話を戻せば、このドラマで重要なのは〈昭和30年代〉的な時間感覚だろう。新幹線開通以前的な時間感覚。また、北海道に出張するのに、上野から夜行列車と青函連絡船を乗り継いで一昼夜かける時間感覚。緊急の連絡はメイルではなく電報。これはネタバレかも知れないが、当時飛行機に乗ることは、(刑事を含む)一般人にとって、想定される選択肢にはなかった。この意識のギャップによって、アリバイが成立しているかの見かけが作られたのだ。〈昭和30年代〉的な光景の再現は勿論重要だが、この時間感覚に視聴者を自明なものとして浸らせることができたとしたら、このドラマは成功といえるのではないか。
『点と線』は(舞台がほぼ1年違いの)『ALWAYS 三丁目の夕日』よりも戦争の影が濃い。鳥飼刑事(ビートたけし)は何発も弾を体内に喰らいながら中国戦線を転戦し、女房とも上海で知り合ったという設定になっている。原種臣大臣(江守徹)と安田辰郎(柳葉敏郎)は関東軍時代の上官-部下の関係であり、その関係が戦後復員後も政治家と黒幕的な企業家の関係として継続していることになっている。誰だったか、ヨーロッパで戦争が終わった後も生涯継続される共同性としての〈戦友〉という観念が成立したのは第一次世界大戦においてであるということを言っていた。日本においてそのような意味での〈戦友〉が成立するのは第二次世界大戦か。
松本清張の『点と線』を読んだのは中学1年のときであり、勿論あの「4分間」の空白とかは覚えてはいたのだが、当然ながらデイティルについては忘却していた。

点と線 (新潮文庫)

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