誰が懐かしがるのか

山崎貴の映画『ALWAYS 三丁目の夕日』を観たのはかなり以前のことで、http://d.hatena.ne.jp/partygirl/20061120に批判というか突っ込みが載ったときに、付け足し的に何か書こうと思ったが、時機を逸してしまった。忘れないうちにその印象についてメモ書きをしておく。

ALWAYS 三丁目の夕日 豪華版 [DVD]

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まあ、この映画はもたいまさこ三浦友和が観られたのでよかった、終わりという程度の映画ではある。
しかし、これだけではアレだ。私が気になったのはこの映画が〈懐かしさ〉ということで語られ・賞賛されているということだ。映画の中で吉岡秀隆が呑みながら「大江」や「石原」を罵倒するシーンがあるが、1958年、大江健三郎石原慎太郎もまだ新人作家だった時代の話である。私も未だ生まれていない。薬師丸ひろ子だって生まれていない。そんな生まれてもいない時代のことを誰が懐かしがることができるか。この映画を観て、懐かしさとかを感じているのは、誰とも知らぬ懐かしいぞとか懐かしがれという声に促されてのことなのではないかと推察する。ところで、この映画のポスター(或いはDVDのジャケット)には東京タワーがフィーチャーされている。(Pantaの歌詞をパクるつもりはなかったが)私は「東京タワーに裏切られ」た。時代設定が東京タワー建設中の時代ということなのだが、映画の中で東京タワーは登場人物たちの振る舞いを方向付けるランドマークとして全く機能していない(道に迷うというシーンは幾つかあるのに)*1。私自身も、呑んだくれて深夜東京の街を彷徨しつつ東京タワーを道標としたという経験はある。建設中とはいえ、高いビルも今ほどはなかった当時、迷子になったものが東京タワーを目印にするということは大いにありうることだ。最後の場面で、荒川の土手(?)から眺められた遠景の東京タワーが登場する。これは東京タワーの足下に暮らす東京の住民のランドマークとしての東京タワーではない。言ってしまえば、それは田舎者の視点から眺められた東京タワー、さらに言えば、抽象的な日本国民という視点から眺められた東京タワーである。この視点に同化して、この話を東京ローカルの話ではなく、日本国民の歴史物語(高度経済成長前夜とか何とか)として受容するときに、〈懐かしさ〉を感じることができるというわけだ。
あと、特徴的なのはこの映画には(良くも悪くも)戦後日本を代表する人物類型であるサラリーマンが登場しないということである。その意味では、かつての『時間ですよ』とか『ありがとう』とか『寺内貫太郎一家』といった商店街を舞台として旧中間層を登場人物とする人情ドラマの系譜に位置づけられてもいいのかも知れない。

*1:フランソワ・トリュフォーの『大人はわかってくれない』で常にエッフェル塔ジャン=ピエール・レオを位置づけるランドマークとして機能しているのと対照的である。