Program/project

ちょっと前に鷲田清一先生の『老いの空白』から、


現代の企業での仕事を見ていると、この「プロ」(前に、先に)という言葉が一貫してその作業に用いられているのにおどろく。たとえばあるプロジェクトを立ち上げる。そのためにはあらかじめプロフィット(利潤)のプロスペクト(見込み)を検討しておかなければならない。見込みがあればプログラム作りに入る。そしてプロデュース(生産)にとりかかる。支払いはプロミッソリー・ノート(約束手形)で受ける。こうしたプロジェクトが成功裡に終われば、つまり企業としてのプログレス(前進)にうまく結びつけば、あとはプロモート(昇進)が待っているだけだ。できすぎと言っていいくらい、「プロ」のオンパレードだ。プロジェクト、プロフィット、プロスペクト、プログラム、プロデュース、プロミス、プログレス、プロモーション……。これら「プロ」を接頭辞とする言葉は、ラテン語もしくはギリシャ語の語源をたどれば、それぞれ、前に投げる、前方に作る、先に描く、前方に引っぱる、前方に置く、前に進む、前に動くという意味だ。これらは、未来の決済を前提に現在の取引がおこなわれる、あるいは決済(プロジェクトの実現や利益の回収)を前提にいまの行動を決めるという産業社会の論理を表わすものであり、また個人の同一性とその正当化の根拠は個人の出自ではなく、彼が将来に何をなし、何を達成するかにかかっていると考える近代市民社会の論理をも表わしている。
という一節を引用したのだった*1
老いの空白 (岩波現代文庫)

老いの空白 (岩波現代文庫)

さて、

坂元新之輔、中沢新一「文化、反自然、そしてオウム真理教」『イマーゴ』6-9(臨時増刊、総特集=「オウム真理教の深層」)、1995、pp.164-178


地下鉄サリン事件、そして麻原彰晃逮捕があった年の8月に出た『イマーゴ』臨時増刊。中沢新一*2の「責任編集」となっている。
陰謀史観」が論じられている文脈で、


中沢 予言の方法が発達したのは、ユダヤ教の世界です。ユダヤ教では、世界史というものをプログラムとしてとらえていますから、プログラムの中で成就されることを、あらかじめ設定しておくわけですね。そして一つ一つが実現されていくことが歴史だと。つまりすべての歴史がプログラムなんですね。ニーチェみたいな人がユダヤキリスト教に反逆するのは、歴史はプログラムじゃない、プロジェクトなんだ、サイコロを投げているようなものだと、挑戦したからでしょう。
ところが、日本人は五島勉の『ノストラダムスの大予言』以来、このユダヤ教的プログラムが頭の中に刷り込まれちゃっていますから、ノストラダムスの大予言は、当たるに決まっているんじゃいないかな。なぜかと言うと、世界全体がいまやユダヤ・プログラムで動いているんだから、当たるのも当然でしょう。そこでわれわれアジア人が何をやらなければいけないかというと、そのプログラムに所属しないで生きるためにはどうしたらいいか、ということの探求をやるべきなんじゃないかと僕は思うんです。世界を覆い尽くそうしているあるプログラムがある。それをフリーメーソンと呼ぼうと……
坂元 イルミナティーと呼ぼうと国連と呼ぼうと(笑)。
中沢 何と呼ぼうといい。それとどうやって闘うのかというのは、そのプログラムに乗って自分もそのプログラムの参画者となって、最終戦争に向かって戦うことではなくて、むしろそのプログラムに入らないことの知恵が必要なんじゃないか。生きること自体をプロジェクトとして、むしろプログラムから垂直に立ちあがっていく生き方を探っていく。つまりゲリラですね。全面戦争を闘うのではなくて、
瞬間瞬間でゲリラをやって闘うということが、僕らが毛沢東やグエン・ザップから教えらえれたことなんじゃないのかな、となると、世界を覆い尽くそうとしているプログラムに対処するやり方として、僕は九二年ぐらいから麻原さんがずんずん向かって言ったあの対処の仕方というのは、もう自分の考え方と違う、と思ったわけです。でもまあ坂元さんは、プログラムを前提とした投企もありうると考えているんじゃないかな。
坂元 ええ、オウム真理教の予言において、ヒューマニズムという金星のプログラムにたいして、ブッディズムという太陽のプログラムが相争う、このプログラムとプログラムの対立の構図の中で、ひとりひとりが投企していくのだ、というモデルですね。(p.177)
けっこうやばい言葉遣い。中沢新一ユダヤ陰謀理論を肯定していると判断されかねないような言葉遣い。これは、〈ポスト構造主義〉という1980年代的な知の文脈で読まなければいけないだろう。解毒のために、そのちょっと後の中沢氏の発言を引用しておく;

七〇年代には、プログラムにプログラムを対置させない、正規軍に正規軍を対置させない方法があるんじゃないかと、という模索をしていたんですね。要するにディコンストラクションのやり方です。正規軍に対して、まったく違う言語様式をもって、ゲリラをもって対置させるしかありえないんじゃないか。圧倒的な正規軍を前にしたときに、消滅に瀕しようとしている勢力が生き延びて、長征を続けていくためには、ゲリラ戦法をとるしかないだという考え方が、六〇年代のアメリカに衝撃を与え、ついでフランス人に衝撃を与えました。それが思想的に形を変えて、ディコンストラクションという方法に昇華されました。しかし、八〇年代に入って、まだディコンストラクションでなんとかなるんじゃいないかと思っていたら、これができないんですよ。そこで麻原彰晃的な気のあせりというか、「こんなもんじゃだめだ」という切迫観(sic.)が発生するのは、よくわかります。(pp.177-178)
まあ20年以上経った時点からいちゃもんをつければ、ちょっと麻原を買いかぶりすぎなんじゃないの? というところはある。「プログラム」としての歴史だけれど、何よりも参照すべきなのは、アウグスティヌスカルヴァンなどの〈予定説〉の系譜ではあろう。
ここで中沢新一氏と対談している坂元新之輔氏はオウム信者文化人類学専攻の東大の大学院生だった。研究対象は(たしか)朝鮮(韓国)の戸籍制度。その後どうなったのかは知らない。