7月29日、加藤哲郎『象徴天皇制の起源 アメリカの心理戦「日本計画」』(平凡社新書)と石川美子『旅のエクリチュール』(白水社、2000)を読了した。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050801で、仲正氏の本を引きながら、日本と独逸のそれぞれの「戦後」の差異を云々したが、『象徴天皇制の起源 アメリカの心理戦「日本計画」』によると、それはそもそもアメリカが構想したシナリオに沿ったものだということになる*1。既に、アメリカの戦後構想については、タカシ・フジタニ氏が所謂「ライシャワー・メモ」を発見し、「新史料発見 ライシャワー元米国大使の傀儡天皇制構想」(『世界』2000年3月号)を書いている。加藤氏が発掘したドキュメント(「日本計画」)は、「ライシャワー・メモ」よりも時期を遡り、より公式性の高いものである。曰く、
OSSは今日のアメリカCIAの源流をなすものだが、その調査分析部(R&A)には、戦後アメリカの社会科学を担うことになる右から左までの社会科学者たちが結集していた。例えば、スチュアート・ヒューズ、アーサー・シュレジンジャー2世、ウォルト・ロストウ、ノーマン・O・ブラウン、バリントン・ムーアJr.、ポール・スウィージー、ポール・バラン、グレゴリー・ベイトソン、さらには、マックス・ホルクハイマー、テオドール・アドルノ、ヘルベルト・マルクーゼ、ベルトルト・ブレヒト、ジークフリート・クラカウワー、パウル・ティリッヒ。また、タルコット・パーソンズやアーサー・O・ラヴジョイも、非常勤ながら参加している。
パール・ハーバー半年後のミッドウェー海戦時に、すでに米国は、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略を、個人的意見・提案ではなく、陸・海軍、国務省、情報調整局(COI、Coordinator of Information、OSSの前身で一九四一年七月一一日創設、「日本計画」直後の四二年六月一三日に戦略情報局OSSと戦時情報局OWIに改組[略])、それに英国政治戦争本部(PWE)も加わって検討した公文書中で明言していた。日本国憲法の産みの親マッカーサー(当時米国極東陸軍最高司令官、連合軍南西太平洋方面総司令官)も、それを承知していた(p.29)。
第1次世界大戦に始まった〈総力戦〉(総動員体制)は、工業や商品の流通にとどまらずに、遂に学術研究、それも社会科学・人文科学に及んだといえる。また、大規模の国家的プロジェクトとしての社会科学の共同研究というのは、これが史上初なのではないか。さらに、これが戦後の(制度としての)学際研究・共同研究や大学の講座の運営=経営のスタイルをかなりの程度決定したということは容易に想像できる。また、「国民性」研究というかなりいかがわしい研究が学問的市民権を得たのは、このプロジェクトあたりかららしいのだ。ともかく、CIAの起源は現代社会科学の起源でもあったということである。
その成果として、例えば「敵国」日本については、Strategic Survey of Japanという膨大な「百科全書」が〈真珠湾〉から1月ちょっと後の1942年2月には作成されている。そして、後半(第5章以下)がいよいよ「象徴天皇制の起源」=「日本計画」について、ということになる。ただ、この辺り、人物や組織が入り乱れていて(とはいっても、実際そうだったんだから仕方がない)読むのがけっこう面倒臭い。その中で1つ興味深かったことは、「日本計画」の起草者にとっての〈二二六事件〉の衝撃の強さである。〈二二六事件〉は「革命」として記述されるのだが、COI=OSSの日本専門家チャールズ・ファースは、〈二二六事件〉当時、東大の美濃部達吉、蝋山正道の許に留学して、「革命」を直に目撃していたのだ(p.148)*2。また、皮肉なことに、軍部を打倒して「象徴天皇制」を確立するというアメリカ側の構想というのは、〈君側の奸〉を取り除いて〈昭和維新〉を断行するという青年将校の発想と構造的には同一である。「日本計画」でも明治天皇の〈偉大さ〉は言及されている。とすると、戦後のアメリカの日本占領政策というのは〈二二六事件〉の反復であり、また明治維新の反復でもあることになる*3。
さて、著者は、
と述べている。
米国戦略情報局(OSS)調査分析部(R&A)は、反ファシズムのヒューマニズムと学問研究の特性を利用し、戦時体制下に研究者を総動員し、その成果を吸収しつくして世界戦略を立案し、勝利した。だからこそ、その担い手たちは、戦後アカデミズムで圧倒的な影響力を持ち得た。その実証分析を重んじた組織的な情報戦によって、ナチス・ドイツや日本はもとより、指導者の意に添わない情報を遮断し切り捨てる旧ソ連の国家哲学強要型情報戦や。伝統的なイギリスの秘密主義的諜報戦にも勝利しえた。
イラクの情報戦におけるアメリカの苦境は、CIAにおいて、OSSの伝統が枯渇し、旧ソ連型に退化し硬直したためであった(p.244)。
石川美子『旅のエクリチュール』は、「浦島太郎」についての省察から始まる。「浦島太郎」には、古代の『日本書紀』や『万葉集』から近代に至るまでさまざまなヴァージョンが存在する。例えば、〈亀の恩返し〉というモティーフは室町期の『御伽草子』以降のもの。しかし、「主人公が帰郷して玉手箱をあけたとたんに老人になってしまうという点においては、どの文献も、時代をこえて全くおなじなのである」(p.9)。
また、浦島の到達した「竜宮城」は「四つの季節が同時に存在する場所」である(p.12)*4。「異境のもつ超時間性」。これは「現実の旅人もいくぶんかは経験する」;
むしろ、動物の恩がえしや海底訪問はのちにつけくわえられたモチーフにすぎなかった。浦島伝説の主題ははじめから、瞬時にして数百年が過ぎ去ってしまうという一点にこそあった。つまり、「浦島太郎」はもともと、時間の謎についての物語だったのである(p.10)。
旅する人は、おとずれる場所のかぎられた季節しか目にすることがない。したがって、その季節季節の印象が、旅人にとってはその場所の永遠の風景となってしまう。ひとつの季節が永遠の時間となる、ということが起こるのである(p.13)。
では、「主人公が帰郷して玉手箱をあけたとたんに老人になってしまう」という結末はどうなのだろうか。著者によれば、このことも「現実の旅人」と無縁ではない;
竜宮城が四季を同時に共存させた超時間的な場所であるように、旅人が旅先でおとずれる町もまた、ひとつの季節の印象を永遠の風景としてしまう超時間的な場所だといえるだろう。旅する者はみな、異境の超時間性を知ってしまう浦島太郎なのである(ibid.)。
旅を終えて、故郷という出発点にもどってきたとき、空間上の移動はゼロ地点にもどる。それまでの旅はたんなる記憶にすぎなくなり、現実に残されたのは、月日の経過という時間的な移動だけになる。つまり、旅という「空間移動」は、旅人が帰郷した瞬間に「時間移動」に転じてしまうのである。昔話「浦島太郎」は、そのような旅の不思議を象徴的にえがきだしていたのだった(p.16)。
この〈時間経験〉こそが言葉を誘発することになる;
つまり、「旅行記作家」とは「語りはじめた浦島太郎」である。また、著者によれば、「玉手箱」とは「旅のあいだに書きしるした旅日記」の謂である。実は、「旅日記」と「旅行記」の差異、つまり「旅行記」は常に「事後的」であることは、本書全体を貫く重要な二項対立である*5。
(前略)ひとたび異境を知った者は、故郷にもどってからも、自分のなかに異境の時間をやどしつづけるのである。
だから、彼は語らすにいられなくなる。村人たちにむかって、旅における不思議なできごとを語りたくなる。異境の眩惑や、記憶と虚構の境界のあいまいさを語り、異境への旅とは結局は時間の旅であったことをうちあけ、いまや自分が異境と地上とのふたつの時間を内包していることを言おうとする。それらを語ることで、彼は自分のなかのふたつの時間をなんとか和解させようとのぞむのである(ibid.)。
著者は仏蘭西文学者であり、本書で中心的に扱われる「旅行記」は近代仏蘭西人によるものである。勿論、永井荷風への詳しい言及もあり、また途中松尾芭蕉も参照されたりするけれども。近代的な旅(あるいは旅行記)の特徴は何か。著者は鉄道とか蒸気船といったテクノロジー面での変化を見逃しているわけではない。それよりも重要なのは、ルソーによる「風景の発見」とシャトーブリアンによる「風景の創造」である(第2章)。「風景」が「発見」されたり「創造」されたりしたこと、それは同時に〈私=内面〉の発見や創造でもあった。ルソーが『新エロイーズ』で語ったのは、アルプスの風景がルソー自身の精神にもたらした作用であり、『告白』で語ったことはアルプスの風景が彼自身の人生に対して有する意味だった。シャトーブリアンの場合は、一見ルソーによる「風景の発見」を否定しているように見える。著者は『モンブラン紀行』から引用する;
また、
高い場所が心身によい影響をあたえるなどと、ジャン=ジャック自身、いったい本気で信じていたのだろうか。不幸な彼は、自分の情熱も苦悩も、スイスの山の上には持って行かなかったのだろうか(p.54)。
シャトーブリアンにとって「重要なのは、目に見える風景ではなく、自分の内面のほう」(ibid.)なのだ。シャトーブリアンが付与している
そこが静かな場所だから、孤独な人間の魂のなかに入りこんでくるというわけではないのだ。それどころか、雷の鳴りわたる場所であろうとも、孤独な人間の魂は、静けさをまわりに広げてゆくのである(p.56)。
さらに、「風景の発見」/「創造」と軌を一にしていること、あるいはそれに先行するすることとして、著者が「「どこ」を語る旅から、「わたし」を語る旅への移行」(p.108)と呼ぶことがある。例えば、『ガリヴァー旅行記』。空想旅行記も含む、
孤独、風、物悲しさといった秋のイメージは、現在ではごくありふれたものである。だが、十八世紀前半まではそうではなかった。秋とは、実りと収穫の季節であり、豊穣さや陽気さのイメージをともなうものであった。おなじ秋の情景でありながら、陽気にみえもすれば、物悲しく受けとめることもできる。そのことをシャトーブリアンは意識していた。重要なのは目に見えるもの自体ではなく、それを見るまなざいのほうなのだ、と(pp.56-57)。
あと気になった論点を抜き書きする。
これまでの旅行記の主人公や語り手は、旅先から何かよいものを持ち帰ってくるものであった。それは、世界についての知識−−ヘロドトスの場合−−であったり、財宝−−マルコ・ポーロ−−であったり、あるいは新大陸の発見という手柄−−コロンブス−−であったり、月世界での見聞という希有な体験−−ゴンザレス−−であったりした。人に見せて自慢することのできる名誉を手にして、旅人たちは帰郷するのがつねであった。
ところがガリヴァーはそうではなかった。彼が持ち帰ったのは、人に見せることのできない不幸な意識だけであった。自分自身の生をもおびやかす、人間嫌悪という暗い意識であった。これでは浦島太郎とおなじである。昔話における異境訪問の主人公が宝物などの幸福を手にして帰郷するなかで、浦島太郎だけが漏水という不幸を背負って帰ってきたのだから。浦島太郎とガリヴァーは、人に見せびらかすことのできないもの、すなわち自分自身で受けとめるしかないものを手にして帰還したのだった。このときから、つまり旅の成果が他者にではなく自分自身に向けられるしかなくなったときから、旅の文学は大きく変わりはじめたのである(pp.100-101)。
「時間」について。上で触れた「内面」の発見は時間意識の変容とも関係している。
そして、聖アウグスティヌス(『告白』11巻16章)のお言葉−−「過ぎ去った時間はもはやないものであり、来るべき時間はまだないものである」(p.113)。
時間とは、現代人にとっては、過去から現在そして未来へと持続しているもののように感じられる。過去の時間は、完全に失われてしまったのではなく、現在そして未来へとつながっている。時間は持続しているという意識をもって、現代人は生きているのである。
ところが十七世紀までの人はそうではなかった。彼らにとって、過去とは消え去り、失われてしまった時間であった(pp.112-113)。
アウグスティヌスの『告白』においては、過去と現在とは無関係であるかのごとく切り離して考えられていたのだった。
それにくらべて、十八世紀のルソーの意識は−−おなじく『告白』と題する自伝を書いていながらも−−あまりにも対照的である。ルソーは、現在の自分を知ってもらうには過去の自分について語らねばならない、と考えていたのだった(p.114)。
十七世紀の人びとは現在だけに生きていた。過去や未来について考える余裕はなく、時間にたいする意識自体があいまいであった。したがって文学においても、時間について語ろうとする作品はみあたらない。自分の過去について語る回想録はたくさん書かれたが、それらの作者たちにしてもやはり、アウグスティヌスのように過去の自分を現在の自分から切り離してとらえていたのだった。それでも彼らが回想録を書いたのは、すぎさった事件を家族や友人たちに報告するためであり、昔のことを思いだして愉しむためであった。けっして、現在の自分を理解してもらうには過去のできごとを知ってもらわねばならない、と考えたからではなかった(p.115)。
「過去が突発的に現在のなかに侵入してくること」、このことを、ルソーとシャトーブリアンとマルセル・プルーストは共有している。それも「旅をとおして」の「突然の過去想起」(p.135)。「おなじ場所で昔のことを想起しても、たんなる思い出にすぎず、ただ時間が経過したことを確認するだけである:(p.136)。彼らにとって、「空間移動をしたこと」、浦島太郎的な〈時の揺らぎ〉を経験したことこそが、「時間について語りうるための前提だったのである」(ibid.)。さまざまな違う場所において、突発的に想起が反復される風景。つまり、旅人は特権的な風景(著者が使う言葉だと「楽園」)を背負いながら旅を続けていることになる(p.139)。
十八世紀における重要な発見のひとつが、生に特異性をあたえる記憶のちからに気づいたことだったと言ってもいいだろう。啓蒙主義者たちは、自分の存在が。現在の生と。過去と、そのふたつをむすびつける記憶とによってささえられていることを確信した。だから、みずからの生と時間とのかかわりについて考え、語りはじめたのである。
そのような流れのなかでこそ、ルソーは、現在の自分を理解するには過去の自分を知らねばならない、と主張したのだった。(略)
彼は、自分の存在が過去から現在へと連続したものであることを自覚していた。しかしそれは、川の流れにたとえられるような一方向へのゆるやかな流れではなかった。過去と現在とは複雑にからみあっており、ときには過去が突発的に現在のなかに侵入してくることもあった(p.118)。
空間移動のたびごとに、つねにおなじ記憶の風景への回帰をつづける旅人は、現在の時間と記憶の時間とのあいだを行き来するうちに、みずからの時間をどんどん複数化してゆくことになる。さまざまな場所をたずさえての旅は、いくつもの時間を身にまとう旅ともなるのである(p.140)。
「オリエンタル趣味」について。前提として;
十八世紀後半に、自己の内面とむすびついたものとしての「風景」が発見されたあと、十九世紀はじめのロマン主義者たちは、その「風景」を押しすすめて、普遍的なものを見出そうとしていた。その結果、ドイツのロマン主義者たちは、「風景」をほりさげてゆく国民文学へと向かった。そしてフランスのロマン主義者たちは、「風景」をもとめて各地をさまよう異国趣味のほうへと進んでいったのである(p.144)。
オリエントとはどの地域をさすのか、十八世紀までは漠然としたままであった。ギリシアからシャムにおよぶ東方すべてがそうだったと言ってもよかった。しかしシャトーブリアン以後はほぼ明確になる。フランス人にとってのオリエントとは、まさにシャトーブリアンが旅をした地域、つまりギリシアからエルサレムそしてエジプトやチュニジアにいたる地中海沿岸をさすようになったのである。
シャトーブリアンの旅はまずエルサレムを目的地としていたのであるが、しかし『パリからエルサレムへの旅路』のなかでは、エルサレムについての記述は四分の一にもみたない。ギリシアについてのほうが量的には多いし、またシャトーブリアン自身の感情や意見がいきいきと語られているのは、むしろエジプトの旅のほうである。旅行記が書きすすめられてゆくうちに、いや、旅がつづけられるなかで、聖地巡礼の旅は古代文明をさぐる旅のほうへと重点を移していったようにみえる。そしてその変化は、十九世紀前半にオリエントを旅した人たちの考え方の変化でもあった。というのは、一八三〇年代までのフランス人のオリエント旅行は聖地巡礼の旅という様相を呈していたが、一八四〇年代からはむしろ古代遺跡めぐりの旅という色合いの方がつよくなっていったからである。そして、巡礼ならば欠かすことのできないエルサレムの地に立ち寄らないオリエント旅行さえ−−ネルヴァルの場合がそうだった−−見られるようになったのである(pp.147-148)。
彼ら[仏蘭西人たち]はやはり、フランスの伝統−−革命によって失われてしまった文明の記憶−−をオリエントのなかに見出そうとしていたのである。だから、だれもがじゅうぶんに準備をしてオリエントへ旅立っていった。巡礼旅行として出発したシャトーブリアンやラマルチーヌだけでなく、観光旅行のつもりで出かけたネルヴァルやフローベールたちまでもが、歴史や古典文学についてのじゅうぶんな知識をたずさえてオリエントへ向かったのである(p.152)。
7月30日、三越日本橋本店で『サヴァリン・ワンダーマン・コレクション ジャン・コクトー展』を観る。
コクトーはやはり〈線の人〉だなと改めて思う。勿論、パステルによる作品群やコクトーが彩色した陶器も−−その神話的なモティーフもさることながら−−その色合い自体が美しい。
日本では、「堀口大學文庫」が展示されている(図録だと、pp.68-73)。デッサンを添えて、"a Nico"と題し、堀口へ献本されたコクトーの著書。日本滞在時の即興のデッサン。 図録に関しては、論文の翻訳の質はよくない。幸いに、オリジナルの英語のテクストも収録されているので、そちらの方を参照した方がいいのではないかと思う。
『ジャン・コクトー展』については、hidex氏がやはり書いている。
7月31日、森住卓写真展『Nuclear Blue 核に蝕まれる地球』@紀伊国屋画廊を観る。意図して観にいったわけではなく、偶々新宿に用事があり、また探している本もあったので、紀伊国屋の旧本店をぶらぶらしていたら、開催されていた。
旧ソ連セミパラチンスク核実験場から始まった私の取材は、ロシア核工場チェリャ ビンスク、世界最大の原発事故を起こしたチェルノブイリ原発、アメリカの水爆 実験被害のマーシャル諸島ロンゲラップ島民、アメリカ・ネバダ核実験場とハン フォード核工場風下地区住民、インドウラン鉱山ジャドゴダと核実験場ポカラン、 劣化ウラン弾被害のイラク、コソボ、民族独立闘争と結びついた核実験反対運動 のフランス領ポリネシア・タヒチなど核被害取材の旅は11年間にわたった。