「印象」しかない?

長崎励朗「音楽は語るべきではない?――『ロッキング・オン』と音楽語り」*1(in 『偏愛的ポピュラー音楽の知識社会学』、pp.161-189)


このテクストは「ロキノン厨」への言及から始まる。


最近は*2やや下火になったが、「ロキノン系」というう言葉がやたら使われた時期があった。基本的には『ロッキング・オン』でプッシュされるミュージシャンを指すのだが、あまり良い意味でつかわれているのを見たことがない。ネット上では大抵、ミュージシャン自体よりもそのファン層を攻撃するために用いられており、彼らを揶揄するために「ロキノン」と「中坊」を組合せた「ロキノン厨」というネットスラングがやたらと飛び交った。
ただ、彼らに対する批判の中身についてはかなり幅がある。かたやアイドルなどの大衆的な音楽を自分の価値観でくさす「嫌なやつら」という批判があり、その一方で、雑誌に紹介されるメジャーなミュージシャンについて訳知り顔で語り、「その程度」で音楽好きを自認する「薄っぺらいファッション音楽好き」として侮蔑的に扱われている。いわば、より大衆的な音楽を愛好する層とよりマニアックな音楽を聴く層の挟撃にあっているような印象だ。(p.162)
そして、『Yahoo! 知恵袋』から以下の言説が引かれる;

叩かれる理由はいくつかあります
①自己陶酔
「普通の人よりマイナーな音楽聴いている俺カッコイイだろ?」とバンドではなく自分に酔ってそれを自慢げに話す。

②他のバンドをけなす、ロキノンが全てだと思ってる
若手バンドに対して「これ○○のパクりじゃね?」とか「テレビ出演とかファン辞めるわー」と過度な発言をする等

質問主様のように単純に好きな音楽がロキノン誌に掲載されているだけの場合はロキノン厨とは言いません。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10139804565 (Cited in pp.162-163)

これは

ロキノン厨について

私はロキノンを読んでいて、ロキノン系のバンドが好きなのですが、これってロキノン厨ですか?ただ、他にも好きなアーティストはいます!

なんでロキノン厨が叩かれる
のか分かりません。

という質問への答え。
改めて読み・コピペもしてみると、長崎氏の(「ロキノン厨」は)「より大衆的な音楽を愛好する層とよりマニアックな音楽を聴く層の挟撃にあっている」という指摘と、(「ロキノン厨」は)「「普通の人よりマイナーな音楽聴いている俺カッコイイだろ?」とバンドではなく自分に酔ってそれを自慢げに話す」という『知恵袋』の回答とは矛盾しているように思える。また、「ロキノン系」とは「基本的には『ロッキング・オン』でプッシュされるミュージシャンを指す」というけれど、21世紀になって揶揄される「ロキノン」というのは1970年代に創刊された『ロッキング・オン』ではなく、そこから派生し、邦楽に特化した『ロッキング・オン JAPAN』というべきだろう。ジュウ・ショ「【2022最新】ロキノン系とは? 90年代〜2010年代の代表的バンドを一覧でまとめ」というテクストを読むと、結局「ロキノン系」≒日本のロックということになっちゃうじゃん! と思ってしまう*3
ロキノン厨」や「ロキノン系」を産み出す21世紀の「ロキノン」と1970年代の『ロッキング・オン』には如何なる関係があるかのかは興味深い問題かも知れないが、長﨑氏は初期『ロッキング・オン』の「洋楽好きの青少年・少女たちのいわばアジール」(p,188)としての雰囲気がかなり急速に変質していったことは論じているけれど、その先の『ロッキング・オン JAPAN』の分岐などには筆が及んではいない。
まあ、1970年代の『ロッキング・オン』において、「「普通の人よりマイナーな音楽聴いている俺カッコイイだろ?」とバンドではなく自分に酔ってそれを自慢げに話す」ということはなかった。というのは、「普通の人よりマイナーな音楽」ということであれば、パンクに特化した雑誌『DOLL』があったし、ヨーロッパ大陸のロックにフォーカスした『ロック・マガジン』や『フールズ・メイト』もあったのだ。『ロッキング・オン』で話題になったのは、これらと比べれば主流派のロックが多く、『ロッキング・オン』の読者が、「「普通の人よりマイナーな音楽聴いている俺カッコイイだろ?」とバンドではなく自分に酔ってそれを自慢げに話す」と、これらの雑誌の読者をdisっていたとしても不思議ではない。

わたしはすこし前に、自分のまわりには健全でマジメな高校生諸君、そしてあまりにも常識的かつ厚顔なおとな達しかいないし、あの人たちに何を話してもしょーがない、わたしの言うことはせいぜい「SFの読みすぎだよ」と冷笑されるのが落ちで、あの人達の言うことはわたしには全く実感も共感もできず、だからもういいの、あのオメデタイ(そしてそれ故に愛すべき)人達とはあまり摩擦のおきないようにわたしはわたしの表面をなめらかに、しかも完璧に保って、適当にえーかげんにかれらにあわせながら、自分の内面世界へ旅立とう、と決心したのでした。(村尾素子「ロックに触れた私」『ロッキング・オン』15、p.26、1975)
という文が引用されているのだけど(pp.178-179)、近代人である以上、思春期になれば、自己と周囲や世界(環境)との間に違和感が生じることは多々あることであり、そのような違和感を感じた少年少女の心の琴線に触れた表現者として、偶々デヴィッド・ボウイとかクイーンとかキング・クリムゾンとかがあったわけで、「普通の人よりマイナーな音楽聴いている」かどうかというのはあまり関係がないだろう。問題は、21世紀或いは令和においても、思春期的な違和感(もやもや)はあり続けているわけで、そういうもやもやの持ち主の心の琴線に触れ、もやもやの受け皿になるようなものがあるのかどうかということだろう。
さて、長﨑氏は初期『ロッキング・オン』を語る鍵言葉として「主観的ロック批評」という言葉を提出している(p.171)。そして、「主観」についての、

ふつう、俗に、主観、というと、それは恣意性と同じイミ、つまりワガママな、普遍性のない個人性というイミにとられがちだが、ここでいっている主観とは、人間個人個人の普遍的な神秘性としての「私」――きみにも私にも共通してある、この透明で巨大な空虚、痛み、この根拠のない透明で巨大なかなしみの宇宙をさす。人は、ただひとつ、それをかかえて死んでゆく。(「ローリングストーンズ大批判――「ニューロック」とはなんであったか」『ロッキング・オン』4、p.5、1973)
という岩谷宏の言説が引かれている(ibid.)。
「主観的」、印象批評と言い換えてもいい。実は、これは、ロックとかジャズとかクラシックとかを超えて、音楽批評一般についての大問題なんじゃないか。吉田秀和*4は戦後日本の代表的なクラシック音楽評論家だと言えるだろう。その吉田に対して、あんなの印象批評じゃないかという批判がある*5。果たして、印象以外で音楽について有意味に語ることは可能なのか? 音楽について、精緻で客観的な分析は可能だ。また、音響学ということで、自然科学的な考察も可能だろう。しかし、音楽を聴き・享受する私にとって、そうした分析や考察はどういう意味を持っているのか? そこで重要になってくるのは小林秀雄*6。『ロッキング・オン』とくに渋谷陽一への吉本隆明の影響というのはよく語られる(Eg. pp.174-175)。じゃあ小林秀雄はどうなのか? と思ったら、大久保宏という人が「ジャニス・ジョプリンについて語るに際して」つけたという「注釈」が「教養主義的価値観の残滓」として引用されていた――「なお、この小文を書くにあたって、小林秀雄の「近代絵画」のゴッホ論に負うところが大であったということを付け加えておく」*7(Cited in p.168)。

*1:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/05/19/135431

*2:この本が上梓されたのは2021年。

*3:https://note.com/jusho/n/n344c6b241d52

*4:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20120528/1338142357 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20131022/1382369352 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20131126/1385478572 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20141031/1414718917

*5:例えば、冷泉彰彦によるもの。遺憾ではあるけれど、今ちょっと出典とかを確認できない。

*6:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20070116/1168966875 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20090928/1254069607 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20111117/1321458547 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20130413/1365871586 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20130425/1366912936 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20131004/1380863393 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20141031/1414718917 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180409/1523247868 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180416/1523815560 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/01/27/215318 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/06/20/091142 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/08/02/004900 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/01/24/094607 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/02/12/110312

*7:「総展望 現在ロックは何処に グレイティスト・ヒット」『ロッキング・オン』8、p.40、1973. この大久保氏は創刊の時点で、「早稲田大学在学中」だった(p.169)。私が『ロッキング・オン』を読み始めたのは1976年頃からだけど、「大久保宏」という名前は知らない。