- 作者: 村上春樹
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村上春樹『意味がなければスイングはない』の「あとがき」から、
という一節を引用したことがあった*1。
言い訳をするのではないが、音楽について感じたことを文章のかたちに変えるのは、簡単なことではない。それは食べたものの味を、言語的に正確に表現することの難しさに似ているかもしれない。感じたことをいったん崩し、ばらばらにし、それを別の観点から再構築することによってしか、感覚の骨幹は伝達できない。(後略)(pp.330-331)
それに関連して、間宮陽介、中島岳志、酒井哲哉「思想の一〇〇年をたどる(二)−−一九四五−六五年 戦後の思想空間−−」(『思想』1001、pp.178-211、2007)の中から抜き書きしたくなった。
所謂「転向論」に関する議論の文脈で、間宮氏曰く、
中島氏*2はそれを、「小林と言語の問題」、「小林にとっての印象派の問題」だとする;
小林秀雄は、「美しい花はあるが、花の美しさはない」と言っています。「花の美しさ」というのは、この花はこのような理由で美しいのだ、というように概念的な規定です。ところが「美しい花」というのは、花を見て、概念を介在させずに直感で「美しい」と感じることです。小林秀雄はそのような考え方で概念的にはならないから、結局転向というものがないわけです。(p.198)
印象派の思想的テーマというのは言語に縛られずに物を物自体として表現するということで、例えば橋を見ている時は、橋という概念に基づいて橋を描くのではなくて、その概念を崩したところに見えてくる物自体を描こうとします。小林秀雄はそれを言語の問題としてとらえて、何らかの思想として見ようとしている。ぼくは、小林の「故郷」という概念が重要だと思っているのですが、小林は「故郷を失った文学」という文章を一九三〇年代に書いています*3。その中で、自分には江戸っ子の気質はあるかもしれないけれども故郷というのは完全に失われている、しかし失われているがゆえに文学というものが成立するのだ、と言っています。そしてそれは即ち伝統と習慣の問題だ、と。習慣というのは自分が意識しないもので、そこにある。しかし、伝統というのは、ある種の距離において引き受け直すものである。そう言った上で小林は、職人というのは物に従属している、しかし芸術家は、物を否定した上で、それを自分のものにする人間だ。それこそが伝統だ、という言い方をします。
つまり、小林という人は少し複雑で、物自体というところに入っていくかというと、彼は、物を否定した上でそれをどうとらえ直すかという意志の問題に意識を向けているんです。ぼくには美の問題は、解釈しきれないところがあるのですが、「近代の超克」論に至る小林は、そこに介在する何かを引き受けてみせる意志や決断という問題に意識的だったの思うのです。(ibid.)
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*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20130129/1359457895
*2:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070116/1168966875 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110403/1301804644 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20111112/1321120673 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120322/1332376701 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120621/1340291749
*3:『小林秀雄初期文芸論集』(岩波文庫)に所収。