金井先生は読んでいるのだろうか

そういえば、「もし金井美恵子岩崎夏海の『小説の読み方の教科書』を読んだら」と妄想した人がいたのだった*1
金井先生は「小説の読み方」についてどう言っているのだろうか、ということで、『小説論 読まれなくなった小説のために』から;


でも、面白い批評というのは、多少の、これはちょっといただけないし、共感できないなあ、という部分がないと、実は読者としては困ります。あんまり正しいことばかり書いてあると、それ以外に読みようがないのではないか、という気持ちになってしまって、いささか圧迫感を感じます。幸い、ナボコフの読み方には、ちょっといただけない、というとこが、かなりありますから、そこがまたいいのです。(p.87)

小説家は自分の意図とは違う読まれ方をしても、たとえば志賀直哉は『暗夜行路』について小林秀雄河上徹太郎が恋愛小説だと評した時、小説というのは幅広いものだ、と言ったそうですが、確かに、どういう読み方も許されているし、小説はどのような読み方も許しもするのです。
ただし、許し難い読み方というのは、もちろんあります。間違った読み方は時に、魅力的な誤読になったりして、ありもしなかったシーンや文章を、間違って記憶していて、実際にその小説やらエッセイを読み返してみると、そういうシーンや文章がまるでないことを知って、ガクゼンとする、という経験は誰にでもあるでしょう。私たちは、そうやって、実際、読みながら書いてしまったりもしているわけです。読み落し、書き加える。それは正確な読み方ではありませんが、どことなく不思議なものです。
たとえば、私はバーネットの『秘密の花園』という少女小説が好きで、子供の頃何度も読んで、好きなシーンの一つに、秘密の花園の入口の鍵を見つけたメアリーが毎日、花園にこっそり入って庭の手入れをしているのですが、ある日雨にふられて外に出られない、そこでベッキーという若い女中さんに教わって、秘密の花園の鍵を入れるための刺繍をした小さな布袋を拵えるという場面がありまして、そこが、なんとも可愛いらしいというか、いかにもいじらしい女の子という感じで好きだ、と思っていたのに、実はそんな場面は読み返してみたらありませんでした。
島尾敏雄の比較的若い頃に書かれたエッセイのなかにも、似たような経験が語られています。子供の頃読んだ千夜一夜に関して、書かれていない言葉を書きくわえてしまうわけです。いわゆる物語を作る作家ではないだけに奇妙な感じがしたものです。俗に言う、行間を読む、というのではなく、書いていなかったことを読んだ気になってしまったり、あるいは別の小説の一部と、どこかで混りあってしまったりしたのかもしれませんが、私たちは批評家でも文学研究者でもない読者として、読み間違えることを一つの前提として読んでいるのかもしれません。
どこか一つの中心に収斂する必要のない多面体としての読書を考えることにしましょう。(後略)(pp.89-90)
小説論 読まれなくなった小説のために (朝日文庫 か 30-3)

小説論 読まれなくなった小説のために (朝日文庫 か 30-3)

暗夜行路 (新潮文庫)

暗夜行路 (新潮文庫)

ところで、「許し難い読み方」とは何かということは言及されていない。「許し難い」かどうかはわからないが、「悪い」「読み方」に関連して、以下のパッセージをメモしておく;

もちろんいまでも日本の現代の作家でも、やっぱり小説は人生いかに生きるべきかということを
真面目に扱うのがいい小説だと考えている小説家もいて、そういう小説家は、そういっては悪いのですが、だいたい小説そのものは上手なほうではないような気がします。そこでは人生いかに生きるべきかとか、あるいは、「生きるべきか」ではなく、「このように生きた」とか「このようにしか生きられなかった」、「このように愛した」、「このようにしか愛せなかった」と言いかえてもいいのでしょう。そういうことを重要視するあまりに、小説の構造とか、単純すぎる言い方かもしれませんが、言葉のもつ美しさとか、文章のもつ美しさをないがしろにする傾向がかなりあるような気がします。様々な「テーマ」を読み取るのが小説を読む正しいやり方だと、読者である文芸批評家も考えていたせいなのでしょう、こういうことがおこります。(pp.58-59)
さて、こういうレヴューが出ているんだね;


http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20111114#p1