菅原潤『京都学派』

京都学派 (講談社現代新書)

京都学派 (講談社現代新書)

菅原潤『京都学派』*1を読了してから既に1か月近く経つ。忘れないうちにメモしておく。


プロローグ なぜ今、京都学派なのか
第一章 それは東大から始まった――フェノロサから綱島梁川まで
第二章 京都学派の成立――西田幾多郎田辺元
第三章 京都学派の展開――京大四天王の活躍と三木清
第四章 戦後の京都学派と新京都学派――三宅剛一と上山春平
エピローグ 自文化礼賛を超えて――京都学派のポテンシャル


読書案内
あとがき

「京都学派」を論じるということは近現代の日本における(学問としての)「哲学」そのものを論じることになるんだなというのが、最も大雑把な感想。目次にも示されているように、本書では「京都学派」の〈前史〉としての東大哲学科の話が語られている。また、狭義の「京都学派」、すなわち西田幾多郎田辺元西谷啓治高坂正顕高山岩男鈴木成高の「京大四天王」から、「京都学派」の戦後的転回としての上山春平の思想、哲学科ならぬ人文研究所を中心とする戦後の「新京都学派」との(「京都学派」)との関わり、さらに「京都学派」の或る種の継承者としての廣松渉*2柄谷行人の思想までが論及されている。また、「京都学派」に対する批判或いは補完など、複雑な関係が取り結ばれている(また著者の母校でもある)、高橋里美に始まる東北大学の学統に対しても論及は厚い。 
少し抜書き。

(前略)一般的に言って京都学派とは、西田幾多郎(一八七〇〜一九四五)が創始し、田辺元(一八八五〜一九六二)がこれを継承して、(略)西谷・高坂・高山・鈴木といういわゆる京大四天王が展開した西洋哲学研究の学派のことである。ここで挙げた六人はいずれも京都大学を根城にして活動していたので、同大学の所在する土地がグループ名になっている。
他方で西田が座禅により思索を深めたこと、また田辺をはじめとする幾人かが仏教に造詣が深かったことと相俟って、東西思想の融合が京都学派の課題となった。こうした京都学派の姿勢が太平洋戦争当時の「大東亜共栄圏」のスローガンと結びつき、戦争協力の哲学だと指弾されるようになったわけである。(p.10)
また、「京都学派の特徴」として4点が挙げられている;

1、弁証法を基軸とした透徹した論理的思考。いずれの哲学者もヘーゲルを代表とする弁証法との対決を通じて、独特の論理的思考を展開している。西田の場所の論理、田辺の種の論理、高山の呼応的関係がこれに相当する。
2、東洋的(ないし日本的)思想への親和性。西田が参禅を通じて自らの思索を深めたのは有名な話である。西谷も禅に造詣が深く、また晩年の田辺もキリスト教と禅と浄土系の思想の融合を試みている。ただし彼らの言及する思想は禅や浄土真宗といった日本文今日の特定の宗派に限定され、戦後の上山春平(一九二一〜二〇一二)の日本文明史や梅原猛(一九二五〜)の日本学に比すれば、日本文化全体の理解を目指すものとは言えない。(略)
3、現代思想の批判的摂取。当時の最先端の思想をいち早く紹介し、しかも批判的に自らの体系構想に取り入れている。田辺はハイデガー(一八九九〜一九七六)の思索の動向に注意を払っていたが、その思索を「生の存在学」と規定し自らの立場である「死の弁証法」からは一線を画した。高山は新カント学派のカッシーラー(一八七四〜一九四五)から人間学を、プラグマティズムのデューイ(一八五九〜一九五二)から探究の論理を摂取し、それぞれ『文化類型学』(一九三九年)と『場所的論理と呼応の原理』(一九五一年)の骨格とした。この点において、外来思想を紹介するだけの「安全運転」を心がける昨今の研究者とは雲泥の差である。とりわけプラグマティズムとの関係はきわめて重要である。
4、本場の欧米に匹敵する西洋哲学研究の水準。岩波書店とともに哲学関係の図書を発行する老舗の出版社に弘文堂書房(現在の弘文堂)があるが、同書房で企画された西哲叢書の枠内で、高山岩男高坂正顕がそれぞれ『ヘーゲル』(一九三六年)と『カント』(一九三九年)を著していて、いずれも世界最高水準の研究書と評価されている。京都学派は独自の哲学体系の構築を目指すだけではなく、今日の西洋哲学研究の土台をなすための啓蒙的な活動も盛んにおこなった。(pp.14-15)

敗戦直後に京都学派の活動が大幅に制限されたことは、日本浪漫派に比べて深刻な状況だった。なぜなら文学のなかでは日本浪漫派に取って代わる運動がいくらでも存在したのに対し、京都学派に代わる哲学の学派がわが国に存在しなかったからである。しかしそのことよりも、京都学派の祖である西田幾多郎の哲学(一般に西田哲学と呼ばれる)が今もなお、日本で唯一独創的な哲学だと見なされている以上、西田およびその弟子たちが戦争協力に手を染めたという事実は、重く受け止めなければならない。
けれども戦後の多くの哲学研究者たち(そのなかには京大出身者ももちろん含まれる)はこの事実を直視ないどころか、あたかも戦前日本には西洋哲学の研究など一切なかったかのような素振りをし、横文字で書かれた思想を縦文字に変換する作業が哲学の仕事とされる時代が続いてきた。(pp.10-11)
それにしても、「近代の超克」座談会における小林秀雄のは破壊力は凄い(cf. 138-145)。
ところで、鶴見和子*3を「高名な哲学者」と何の注釈もなしに自明な事実であるかのように記述するのはやはり誤りといえるだろう(p.195)。また、エマニュエル・レヴィナスを「ハイデガーの弟子」とするのはどうか(p.95)。レヴィナスは1928年から29年にかけてフライブルクへ留学している。それは少なくとも制度的にいえば、フッサールの許へということになるだろう(Cf. eg. 熊野純彦レヴィナス入門』、pp.29-30)。本人が「フッサールの家にでかけて、ハイデガーに出会ったようなものだ」と語っているにしても。
レヴィナス入門 (ちくま新書)

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