林聖子という人

佐久間文子*1「【著者インタビュー】森まゆみさん 文化人たちが愛した文壇バーに迫る」https://news.yahoo.co.jp/articles/c3248fc63b9b827f0e3f3c86ff3003ac89f05e79


森まゆみ*2『聖子 ──新宿の文壇BAR「風紋」の女主人』を巡って。


 檀一雄吉村昭竹内好色川武大中上健次大島渚……新宿に2018年6月まであったバー「風紋」には綺羅星のごとく文化人が集った。そのバーを切り盛りしていた林聖子さん*3の人生を辿る。アナーキストとして知られる大杉栄に近い画家・林倭衛*4を父親に持ち、太宰治に可愛がられ短編小説「メリイクリスマス」のモデルにもなった彼女は戦後、太宰の世話で新潮社で働く。その彼女が「風紋」を開き、現在に至るまでを、本人と関係者に取材したノンフィクション。

林聖子さん、九十三歳。文化人、出版人が夜ごと集まった伝説の文壇バー「風紋(ふうもん)」の女主人として、六十年近く新宿で店を続けた。太宰治の短篇小説「メリイクリスマス」のモデルでもある。

 画家でアナーキストの林倭衛(しずえ)の長女として生まれ、両親が早くに亡くなったあとは、激動の戦後を一人で生き抜いた。そんな女性の生涯を、聞き書きの名手である森まゆみさんが一冊にまとめた。


「『風紋』に初めて行ったのは、一九九〇年代中ごろで、大逆事件で刑死した管野スガの慰霊祭の帰りだったと思います。アナーキストの友だちと一緒で、最初の出会い方が良かったんでしょうね。それからはいつも行くたび、最後に聖子さんがハグしてくださいました」

聖子さんの父・倭衛は、大杉栄を描いた『出獄の日のO氏』などで知られる画家だ。気の向くままに各地を転々とする自由人で、聖子さんが生まれたときはフランスに滞在しており、翌年、聖子さんの弟にあたる男児がフランス人女性との間に生まれている。両親はその後、離婚するが、後妻となった女性の経営する店を、母と聖子さんが手伝っていたこともある。

父は昭和二十年に急逝、病気がちだった母親も昭和二十三年暮れに亡くなった。母親と三鷹で暮らしていたころ、よく母親を訪ねてきたのが太宰治で、太宰にすすめられて聖子さんは新潮社で働き始める。昭和二十三年、太宰が玉川上水で山崎富栄と心中したとき、入水した場所を突き止め、検死にも立ち会ったのが聖子さんだったそうだ。

 太宰の死と前後して新潮社を辞めた後は筑摩書房に入社するが、二年ほどで退社。哲学者・出隆の長男、英利と暮らし始めるが、英利は深夜の鉄道事故で亡くなってしまう。

「事故の後、聖子さんは英利の実家でしばらく暮らしたんですけど、彼の両親から娘のように思ってもらい『うちから嫁に行けばいい』と言われていたそうです。出家の人たちも立派ですが、頼らず一人で生きていこうとした聖子さんもかっこいい。自立心がすごく強いんですね」

 舞台芸術学院に入り、女優として舞台や映画に出演、将来を嘱望されるが、生活のためにバーで働き始める。当時の恋人とも別れ、昭和三十六年、三十三歳のときに、自分の店「風紋」を開いた。

 檀一雄浦山桐郎田村隆一ら、「風紋」に来ていた客の顔ぶれが豪華だ。太宰の友人だった筑摩書房古田晁は、生涯、「風紋」を応援し続けた。

「古くから聖子さんを知るかたにお会いして、たくさん話を聞かせていただきましたけど、みなさん今でも目がハートマークになるんですよね。本当にすてきな女性だったんだな、と思います。声も、姿もいいし、芝居の才能もあったのに、生活のこともあって、役者の道には進まなかったんでしょうね」


 昭和三年生まれの聖子さんは、森さんの母の一つ上になる。

「あの世代の人は女学校に行ったとたん、勤労動員に駆り出されて勉強もできなかったし、戦後の苦労もたいへんなものがあった。私の使命は、上の世代の記憶を、下の世代につなぐことだと思うんです」

 こういう場所があったことを知ってほしい。そんな思いから、森さんは、「風紋」がまだあったときに、若い人たちを何人も連れて行ったそうだ。

「居酒屋やバーみたいな場所がなくなったら、日本の自殺率はもっと高くなってしまうと思う。地域で活動するプレイヤーを育てたいとも思っていて、私自身が『さすらいのママ』になって、いろんな場所で不定期にバーをやってたんです。いよいよ店を借りようと算段してたんだけど、コロナ禍になって、大家さんが『今は素人がやるべき時期じゃない』と言うので残念ながら断念しました。今から私がやってもせいぜい十年、二十年で、聖子さんみたいに長くはやれないですけどね」

出隆*5とも関係があった!

南条郡山東町(現津山市)の出身。1892(明治25)年3月10日~1980(昭和55)年3月9日。幼少の頃の名は渡部隆。中学校の時に叔父の養子となり出隆となる。津山中学校を経て、第六高等学校、東京帝国大学へ進学する。六高在学時は詩作を行っていた。大学では哲学を学び、卒業後の1922(大正11)年に『哲学以前』を刊行し、若者に哲学をわかりやすく紹介した。戦後は東京都知事選に出馬したが落選。以後は学究生活を続ける。ギリシア哲学の権威として晩年には『アリストテレス全集』を刊行している。主要著作に『アリストテレス哲学入門』(岩波書店 1972年)、『英国の曲線』(理想社 1947年)、『神の思ひ』(岩波書店 1941年)、『詩人哲学者』(小山書店 1948年)、『哲学以前』(岩波書店 1941年)、『哲学青年の手記』(彰考書院 1949年)が、翻訳には『アリストテレス全集』全17巻(岩波書店 1968-1973年)のほか、『教説と手紙』(エピクロス著 岩波書店 1959年)、『ギリシャ人の科学 上・下』(B.ファリントン著 岩波書店 1978年)がある。また『出隆著作集』全9巻(勁草書房 1973-1980年)がある。津山市の作楽神社に出の作詞した六高南寮寮歌の碑がある。
岡山県立図書館「哲学者・出隆について」http://digioka.libnet.pref.okayama.jp/detail-jp/id/ref/M2007120111280062229
また、子ども時代に近所に住んでいた最晩年の出隆と交流があったという人がいる;


「幼少時の原風景 哲学者、出隆(いで・たかし)」http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/4550157.html