「月」か「日」か、など

堀江敏幸*1「言葉の錬金術を照らす87の証言」『毎日新聞』2021年3月13日


内田百閒*2没後50年を記念して刊行された、斎藤聖編『百鬼園先生 内田百閒全集月報集成』の書評。
この本は、「講談社版『内田百閒全集』(全十巻、七三年完結)および福武書店版『新輯 内田百閒全集』(全三十三巻、八九年完結)の月報と両者の内容見本、さらに福武文庫の百閒シリーズに添えられた解説」を含む。「寄稿者は、百閒を愛読する作家、批評家、担当編集者、法政大学時代の教え子から主治医まで、文庫解説者もあわせて総勢八十七名。それぞれの立場からこの作家のひととなりや仕事ぶりに触れた証言はどれも興味深い」。
内田栄造は「六中時代には俳句に熱中し、俳号を地元の百間川にちなんで百閒とした」。この「筆名の門のなかは「日」か「月」か」という問題;


高校の同窓生で哲学者の出隆によると、東京が焼け野原に帰す前は「日」、その後が「月」になっているのだが、著者から贈られた本の直筆署名では「昭和十二年以来、日は月に化け、戦後にはさらに鬼になっていた」という。百間・百閒・百鬼園。日と月を凝視し、その違いを正確lきわまりない言葉で表現しうるこの作家の眼力を示すエピソードだ。
ちょっと混乱してしまったのだけど、要するに活字と手書きの差異ということだろうか。