「グラデーション」の話など(赤坂真理)

鈴木英生*1「論点 「男女二分法」を問う」『毎日新聞』2020年12月25日



赤坂真理さん*2へのインタヴュー記事。
少し抜書きしてみる。


(前略)合意のうえで性的関係を持ったと思っても、実はそうではなかったと、下手したら訴えられるかもしれない。極端に言えば、男性も結婚までセックスをしないのがいいという、昔の女性みたいな話にもなる。ところが、女性には性的な場面でも受け身になりたい、迫られたいという好みも、集合的に、どこかに存在するんです。そのことは隠されている。女性同士の内輪話でしか語られない。それなのに、「わかって」と男性に丸投げする。「とてもわかりにくいことを察してね」というのは、無理なお願いでしかない。誰もにストレスがかかり、誰もが誰もに恐れを抱くことにしかちながらないと思います。


――それで、NHK連続テレビ小説で男性が好きな女性に言うせりふが注目された。


ヒロインを未来の夫がとつぜん抱き寄せて、互いに思いを知る、というシーンが朝の連ドラの前半のハイライトです。ところが、「スカーレット」(2019年9月~20年3月)では、男性が「抱き寄せていいですか?」と女性に許可を求めたのです。
下手にアプローチしたら女性に訴えられかねないと恐れる現代男性の現実に、即してはいます。実際、自分からの性的欲求を伴うアプローチは「すべて暴力」であり「悪」である、という「罪悪感」を抱く男性も若い世代には多くいます。けれど、女性の私は「スカーレット」の場面を「つまらない」と思ってしまった。女性が無意識に求めているものを、現実の男性は読みきれません。そこで安全策をとると、退屈な男と思われてしまう。そんなすれ違いがあるように思います。永遠のテーマとも言えるものですが、個別に感じるしかない事柄です。(後略)


――新刊*3では、「そもそもヘテロセクシュアルこそ本当はこじらせやすい」と指摘されています。一般には、セクシュアルマイノリティーの方が、自分の性に向き合うのが大変だと思われがちですが。


ヘテロセクシュアルは、当たり前とされすぎていて、自分を語る言葉が見つけられない。自分を語れないのは、自分を深く知れないこと。問題がどこにあるかわからないのにもやもやするのは、本当に苦しいし、時間が浪費されやすい。そしてヘテロセクシュアルの内実も、よく見れば無数のグラデーションがあり、幅や深さがある。恋の対象と性の対象が違うなどということも、よくある。ヘテロセクシュアルは、自分たちだけで問題を見つけるのが、本当に難しい。私が見つけられたのは、大切な友人であるトランスジェンダーの人との対話を通して、逆にヘテロセクシュアルのグラデーションを考えられたからでした。
彼女は、生まれた性は男性で、ホルモン投与で女性への性転換をした。もう男性には戻れない。でも、手術をした性転換者からは、中途半端だと差別されたりする。彼女には女性のパートナーがいたけれど、性的に想像するのは昔から男性に抱かれることだった。異性が好きで、でも幻想でだけ「女の自分」に同化して男性に抱かれていた。けれど「性自認は男かもしれない」と言い出したりする。ねじれがあるし、ゆらぎもある。でもそれって人間の自然でしょう。「身体の性と心の性がちがう」が性同一性障害の定義。だけれど、そんなに割り切れることってあるんですか?
このおおざっぱさにより、その人ならではの繊細な問題がとりこぼされたり、差別されなくていいことで差別されたりする人もいるのではないかと思いました。もともとそういう苦しみを持っていた方は、男女二分法でできたこの世界がつらかったはずです。でも、男をやめるのであれば女にならなければならず、二分法自体は変わらない。友人をとりまく差別はそういうものでした。
できあいのどんな用語にもぴったりしない多様性。彼女自身も、「定義の方に自分を寄せたい」と、自分の多様性に蓋をしていたんです。私には「これは彼女一人のことではない。すべての人がそうじゃないか」と思えた。ほかならぬ私も、どんな用語でも捉えられない「私」という「たった一人のマイノリティーなのだ」と。


私は以前、「自分の『性自認』はこうで、『性指向』はこうで」と考えてみました。けれども、それではグラフの点にしか思えなかった。自分のセクシュアリティ―は重層的であって、それも常に流動するし、そのつど語りのようにしか把握できない。今回の本の執筆中に出てきて、自分がほっとできた自認は、「内面は男がちで、それが女の体を通して表現されている。内側の男たちが女の私を愛している。だから女であることに齟齬はないけれど、女のボディーの乗りこなしに苦労するのが私」というもの。それが私の、性自認や性指向というよりも、自己自認。マジョリティーの性を知ろうとしてヘテロセクシュアルを100人よく見ても、雲をつかむようなもの。むしろ、マイノリティーという「極」から見ると、ヘテロセクシュアルという塊みたいなものの実体が、個として「こうなのか」と多様にわかってきます。そうすると本当に一人が一マイノリティーなのです。