愛することは習得できるか

所謂「弱者男性」*1を巡って、トイアンナさん*2曰く、


ここで問題になるのは「自分をまっとうに扱って、まっとうに愛してくれる」というのがどういう意味かということだろう。また、「自分を」「まっとうに愛してくれる」他者を求めているのは「弱者男性」に限らない。男女を問わず、またホモ/ヘテロを問わず、「まっとうに愛してくれる」他者を求めているといえる。
弁護士ほり氏*3曰く、
さらに、「 弱者男性」をどう捉えるのかということも問題だ。通常「弱者男性」というのは「キモくて金のないオッサン」と同値とされている。しかし、「弱者男性」=ルサンティマンに深く囚われた男性という視点を採用してみたいと思う。そうすれば、例えばほり氏のいう「まっとうに愛されるとは限らない」「金持ち」にまで視野を広げられるのではないかと思う。非モテの「金持ち」を考えることは、トイアンナさんのいう「弱者男性」に「風俗嬢」を宛がうことの有効性を問うためのヒントになるのではないかと思う。スクール・カースト*4の上下ってあるじゃないですか。 スクール・カーストというのは階級再生産という視点から考え直さないといけないわけだけど、学校時代に下位のカーストに甘んじていた人というのは、実は学歴や高収入の職業へのアクセスを得て、遅くとも人生の中盤においてはかつて上位カーストに君臨していた人たちを、社会的地位や経済的資源において逆転してしまう可能性が高い。学歴やキャリアへの努力も自分を蔑んだ上位カーストの奴らを見返してやるというルサンティマンがドライヴとなっているということも十分考えられるだろう。それとともに、若い頃には遠い存在だった性愛へのアクセスも獲得している可能性も高い。客観的に見れば、とても満足している筈。でも、「まっとうに愛され」ていると感じられるかどうかは不確定である。寧ろ難しいのではないかと思う。相手が自分に靡いているのは、自分が社会的地位や金があるからにすぎないのではないかという不安。出世した元非モテがそういう不安から、不倫に奔っているという話を書いたエントリーが昔あったのだけど、今調べたら、そのblogは現在非公開になっていた。「弱者男性」が何かの拍子で、社会的地位や金や性愛へのアクセスを得たとしても、十全な幸福、自分が「まっとうに愛され」ているという実感を得ることは難しいのではないか。
「弱者男性」に対しては、そもそも他者を「まっとうに愛」したことはあるのかと問うてみるべきだろう。「まっとうに愛され」ていないという不満や不安、それは自らの他者や世界に対する態度を他者や世界に再投影した効果であるかも知れないのだ。「まっとうに愛され」ているか否かという以前に、「まっとうに愛」するという実存的な構えを習得する必要がある。これはルサンティマンの浄化といえるだろう。世界のために必要であるにも拘らず、私たちはその困難にたじろがざるを得ない。社会福祉制度などの国家の制度としてこれを行うことは不可能である。そもそも国家に限らず、如何なる他人もそこに介入することはできない。愛するということを習得してルサンティマンを浄化することができるのは本人以外にはいないのだが、本人にしても、そう決意すればいいというものでもない。また、かくかくしかじかのことをすれば愛するということを習得できます、ルサンティマンを浄化できますというhow toも存在しない。できるのは、浄化された状態が到来するのを待つということだけだ。
だから、社会的介入として現実的なのは、「弱者男性」に限らずルサンティマンの存在を前提として、ルサンティマンによる世界へのダメージを如何に緩和するのかということを考えることだろう。