「フェイクポピュリズム」(メモ)

山本龍彦「「フェイクポピュリズム」に抗す」『毎日新聞』2021年3月18日


曰く、


(前略)SNSのビジネスモデルは、一般に関心経済(アテンションエコノミー)と呼ばれる。魅力的なコンテンツを提供して利用者の関心をひきつけ、これを広告主に販売するという仕組みだ。そこでは、閲覧数やウェブページでの滞在時間がもうけにつながり、利用者が反射的にクリックしそうな刺激的コンテンツが重宝される。偽情報が拡散するのは、それが真実よりも刺激的でSNSの収益構造とマッチしているからだ。
また、閲覧履歴から利用者の政治的傾向や感情が予測され、それを最も刺激する情報が選択的に提供できるため、同様の傾向をもった者同士が強固につながり、思想が極端化して社会の「部族化」や分断が深まるともいわれる。こうみると、関心経済の構造にとらわれた人民とは、常に実験動物のようにセンシングされ、感情的・本能的側面を加速させられた「人民」とは言えないか。
SNSには自動プログラムによって作成されたアカウント(ボット)も存在する。ツイッター上に存在するアカウントの約15%が、直接人間が関与しないボットだともいう。ボットに、特定の投稿をリツイートさせたり、特定の有名人をフォローさせたりすることで、特定の候補者や思想を現実よりも人気のあるものに見せ、虚偽の社会的合意をつくり出せる。また既存メディアが、閲覧数獲得のため、実際にはわずかなネット上の盛り上がりを「炎上」と仕立て上げることもある(非実在型炎上)。
こうみると、SNS上の人民とは、感情を常に刺激され、瞳孔を開きっぱなしにさせられた「人民」であり、そこでのポピュリズムとは、こうした人民とボットらで構成される「フェイクポピュリズム」だとも言える。現代の社会でまず警戒すべきはこれであり、人民やポピュリズムそれ自体ではない。その怒りの感情や力はエリート支配への対抗として、やはり必要なのだ。ネットやSNS自体が悪でもない。
私は、「ポピュリズム」自体、特にその人民 VS. エリートという構図、〈個〉性を捨象した塊(mass)としての「人民」という捉え方*1などは問題だと思う。困難ではあるけど、人民 VS. エリートという構図それ自体を解体して、誰もが自らを「博識の市民(well-imformed citizen)」*2として構成していくという課題を追及していかなければならない。山本氏は「SNS事業者が、利用者の思考を減速させ、熟慮を促すための仕組みを導入することも重要である」と述べている。勿論、これは重要である。「博識の市民」への第一歩として。