八馬智「地元の川の謎」https://hachim.hateblo.jp/entry/2024/12/17/192552
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千葉市から上流を遡っていくと、八千代市に入ったあたりで「大和田機場」というダムのような施設に行き当たる。その向こう側は「新川」*2と名前を変えて、やがて西印旛沼に至る。この川は西印旛沼が水源なのかと思いきや、花見川よりも新川の方が水位が低い。この水はどちらに流れているのかというと、もちろん花見川は東京湾に注いでいるのだが、新川は西印旛沼と同じ水位であり、実質的には西印旛沼の一部となっている。もちろん西印旛沼は利根川に注いでいるし、もちろん利根川は太平洋に注いでいる。つまり、大和田機場が東京湾と太平洋の分水界になっているわけだ。事実を書き連ねるだけでややこしくなってしまったが、花見川と新川は、印旛沼が増水して利根川に流せなくなった非常時に、その水を大和田機場でポンプアップして東京湾に排水するための「印旛放水路」なのだ。これが完成したのは、1968(昭和43)年のこと。それまでは、頻発する印旛沼の洪水被害を防ぐための事業を何度もトライしては失敗することを繰り返していたようだ。笑えないことに、かつて東京湾に注いでいた利根川を鬼怒川に接続して太平洋に流す「利根川東遷事業」が、洪水多発のそもそもの主要因だったようで。東京が抱える問題を千葉が身を削って引き受けるという構図が、ここでも成立していたわけだな。根深いね。
花見川はもともと、現在の花見川区犢橋町など旧千葉郡内を水源として東京湾(江戸湾)に注ぐ小さな川に過ぎなかった。江戸時代の1724年以降、印旛沼の洪水対策と干拓を目的として、同じく千葉市横戸町付近を通り印旛沼へと注ぐ勝田川、高津川等の水系を花見川と結ぶ疏水工事(印旛沼干拓)が幾度となく繰り返された。これらの掘割(疏水)工事は全て失敗に終わった。江戸時代の工事に携わり死亡した人足の共同墓地が、流域の各所に存在する(千葉市花見川区横戸台など)。戦後になり新たな設計で放水路が起工され、1969年に現在の印旛放水路が完成した。これにともない、二級水系の「花見川水系」が利根川水系に編入されて、主要な支流とともに一級河川に昇格した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E6%97%9B%E6%94%BE%E6%B0%B4%E8%B7%AF