幾つかの思想の収斂点とか

伊藤剛「もうだめかもしらんね 」http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20091118/1258497943


所謂「事業仕分け」について、仙谷由人行政刷新担当相 が「政治の文化大革命が始まった」と言ったとか。曰く、


この政権のコンセプトをつきつめると、知的な達成に向けてがんばることや、人生の向上心みたいなものが排除され、ただ生きているだけの人が賞揚される社会が待っているような気がします。

先端研究はいらない、文化的な啓蒙もいらない、ただただまんべんなく均等に子供手当てを支給することが求められている、というわけですから。


科学も、文化も、芸術も、よく考えられたもの、洗練されたもの、先端的なもの、つまり受容できる人の人数が必然的に少なくなるものはいらない、という社会です。


だって「文化大革命」ですよ。

比喩として言っているとして、ではこちらも比喩で返せば、この先にあるのは「下放」じゃないのか、「ポル・ポト」じゃないのかと思います。


「仕分け」の具体的な様子を聞いていて感じたのは、「専門家よりも、何も知らない人間のほうが正しい」という姿勢です。

マスコミで仕事をしていると、よく「それじゃ読者は分かりませんから」的なことを言われたりします。

ちがうよ。読者は分かるよ。少なくともおまえよりはよっぽど頭がいいよ。

構造的には、それとよく似ています。

仮想的に「大衆」を設定して、そこに依拠することで、どれだけでも考えずにものを進めてしまえる。

結果、行き着く先は「馬鹿こそが正しい」「ものを考えていない人間が正しい」という社会です。

この「事業仕分け」というのは今までも財務省(大蔵省)主計局vs. その他の省庁のバトルという仕方で秘密裡に行われていたのが、今回ほかの役者も加わって一挙に公開されたということもあると思う。この「仕分け」でもやたら財務省主計局の人間が張り切っていて、彼らこそが「仕分け」のノリを決定してしまったということも言われている。
ただ、上に書かれている事態というのは幾つかの思想のちょうど収斂点として考えられるのではないかと思う。財務省主計局というのは国家の主婦なので、主婦としての赤字を出さないよう家計を切り詰めるという意識が自己目的化してしまっているということはある。新自由主義者というか、MBA的発想を自己目的化している人にとっては、費用対効果が全てなのであって、それが見込めないものは悪だということになる。また、この人たちにとって効果というのは何らかの数値で表現されるものであって、そのような数値(尺度)から零れるもの、短期的には数値が出なさそうなものは対象外であり、そうした効果=数値の意味についても答えられない*1。また、大衆様にとっては、理解できないもの、理解するのに努力を必要とするものというのは悪だということになる。保守的な人にとっては、下々は変な知恵などつけずに、「ただ生きているだけ」が望ましいということになる。さらに、左翼においては(「文革」というのは端的な例だけど)文化的な洗練それ自体をブルジョワ的として排撃する空気があったし、そうした空気は今でも残っているどころか、少なくとも一部ではブルデュー的な文化資本論のような理論武装によって、新たに活性化している感もある。ここで、数年前の石原慎太郎による現代アートバッシング*2をマークしておくことも無駄ではないだろう。
さて、上の文章における「専門家」と「何も知らない人間」という対立には疑問符を5つくらい付したいと思う。「専門家」を擁護することにも、「何も知らない人間」つまり一般大衆を擁護するのにも幾分かの理はある。だから、この2つのカテゴリーの対立をeither or?という仕方で突き詰めていくのは決して稔りある結果をもたらさないだろう。そうではなく、専門家/「何も知らない人間」という対立を取り敢えず括弧に括って、別の対立を考えてみること。専門家というのは定義上、自分の専門分野以外では素人である。だから、専門家/素人という対立は全社会レヴェルでは意味をなさないことになる。全ての人(あんたもあたいも、あいつもこいつも)何らかの分野では素人なのだから。みんな素人であるとして、教養のある素人かそうではない素人かという対立、アルフレート・シュッツ("Well-Informed Citizen")の言葉を借りれば、「博識の市民」か「市井人」かという対立*3の方が重要であろう。市民をして「博識の市民」たらしめること、文化政策や教養教育の意味の一部はここにあるといっていいだろう。さらに言えば、「専門家」を道具として利用する能力の涵養として、これは民主制社会の知的インフラを為すとも言える*4
Collected Papers II: Studies in Social Theory (Phaenomenologica)

Collected Papers II: Studies in Social Theory (Phaenomenologica)

ところで、中国において「下放」は文革に先立って行われていた。但し、当初はイデオロギー的なものではなく、端的に就業政策として(Cf. 小島晋治、丸山松幸『中国近現代史』)。
中国近現代史 (岩波新書)

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