http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110801/1312214564との関連で、「こんなゼミに意義があるのだろうか。」というエントリーを読む*1。偶々(accidentally)「偏差値的にはEランクの下位に属するぐらいの大学」の「ゼミ」を「非常勤講師」として担当する破目になった著者の愚痴話。これを読んでいて、学生の低学力もさることながら、これは〈自由〉というということに関わっているのかも知れないなと思った。
私はイデオロギー上〈自由〉が無条件に良きものであると信じている。その一方で、現実には〈自由〉が必ずしも良きものではないということもあるということも認識はしている。これは自由には責任が伴う! という通俗道徳的なお説教とはあまり関係なく、選択肢の増大ということで表されるだろう〈自由〉の増大は迷いの増大でもあるということでもあるということだ*2。迷いから抜け出し難ければ、こんなうざったい〈自由〉よりも強制の方がましだと思う人も出てくるかもしれない。〈自由〉というのは重荷でもありうる。
「発表」というけど、何でも自分の好きなことを「発表」しろということなのだろうか。本の輪読ということにして、教師がテキストを押し付けて、学生の担当箇所まで指定するという仕方を採れば、様子は違っていたのかも知れない。また、「グループワーク」の話が出てくる。「議論の中身を書き留めて最後にチームごとに発表するように指示しても、誰一人メモさえとろうとしない」。これも〈自由〉(重荷)を与えすぎなのかも知れない。例えば、誰々が書記になれと、役割分担を押し付けていれば事情は変わっていたのかも知れない。
それにしても、(日頃言っている)デモクラシーを担う〈博識の市民(well-informed citizen)〉を養成せよという話*3とはまあ矛盾するね。