「博識の市民」は?

承前*1

橋下徹大阪府知事当選以来、「ポピュリズム」云々を巡っての議論が盛んであるようだ。
さて、それよりも少し前に、


その関連で、日本では、「素人の意見」というのが、異様に持ち上げられるような気がします。

政治も「お茶の間目線」、裁判も「一般市民の意見」。ワイドショーのコメンテーターはその多くが「なにも専門的な勉強をしていない、そしてむしろそれをウリにしている」芸能人ばっかりです。

こういう風潮、日本に元からあったのか、それとも最近マスコミによって醸成してきたのか、どっちなんでしょう。
http://d.hatena.ne.jp/sean97/20080123/p2

という文を読んだ。こういうのを読むと、誰でもアルフレート・シュッツが〈知識の社会的配分(social distribution of knowledge)〉*2を巡って提出した、expert(専門家)、man on the street(市井人)、well-informed citizen(博識の市民、また見識ある市民とも訳す)という人間類型を思い出すだろう。ここで言われている「素人」というのはシュッツの類型で言えば「市井人」なのだろうか、それとも「博識の市民」なのだろうかという疑問が湧く。勿論、シュッツが述べているように、これらは理念型にすぎず、私たちひとりひとりは時と場合に応じて、専門家であったり、市井人であったり、博識の市民であったりする。さて、専門家というのは自分の専門分野以外では定義上非‐専門家なので、主要な対立は市井人と博識の市民との間にあることになる。また、この問題を真面目に考えるためには、シュッツの〈自然的態度の構成的現象学〉におけるいちばんの難所であるレリヴァンス問題の熟考を潜り抜けなければならないが、ここではこの問題は捨象しておくことにする。専門家との関係で言えば、市井人は専門家の専門的知識にただ従うしかない(もし不信感を抱いた場合は、新たな〈権威〉を、時にはトンデモな権威をも、また探し求めるということになる)。それに対して、博識の市民は専門家の専門的知識を批判的に吟味できる人ということになる。博識の市民の政治的なレリヴァンスについて、シュッツは民主制が存立するためには博識の市民が市井人に打ち勝たなければならないともいっている。多分、かつて博識の市民を体現していたのは、例えば(よく落語に出てくる)〈ご隠居〉のような人たちだったのだろう。では、ネット時代の現代における博識の市民は如何に? インターネットは博識の市民に有利なのか、それとも市井人に有利なのか。
Collected Papers II: Studies in Social Theory (Phaenomenologica)

Collected Papers II: Studies in Social Theory (Phaenomenologica)

ところで、再度シュッツとレヴィ=ストロースとの近さ*3に気付く。博識の市民はエンジニアではなくブリコルールであることになる。