アスリートと政治

承前*1

冷泉彰彦*2「スポーツ選手の大量立候補に思う」http://newsweekjapan.jp/reizei/2010/05/post-147.php


先ず、「スポーツ選手が政治家に転身するのは、個別のケースとしては悪いことではないと思います」という。また、この人たちは「コミュニケーション能力」 においても優れたところがあるという。しかし、日本において各政党が「スポーツ選手」を候補者として相継いで擁立していることに対しては懐疑的である。曰く、


ただ、あまりスポーツ選手ばかり擁立されるというのも問題です。何と言っても日本の場合は、職業政治家になるためのキチンとした教育機関というものがなさすぎます。官僚経験というOJTで「組織としての自己流の生存本能」を身につけた人、あるいは「上昇志向先行型」の雰囲気を濃厚に持った「私塾」出身の人が目立つぐらいで、ホンモノの金融政策とか公共サービスなどを国政的なレベルで実務能力として身につけ、その上で世論との円滑なコミュニケーション能力を持った人材を育てる仕組みはないのです。スポーツ選手という、明らかに政治の素人が即戦力として期待されてしまうのは、そうした人材育成方法の貧困を反映しているように思います。
また、

もう1つ気になるのは、日本のスポーツ界が持っているコミュニケーション様式が時代遅れだという点です。形式的な年齢や経験年数で序列を作り、下位の人間には言葉遣いから行動にいたるまで徹底服従を強いる、このコミュニケーションのスタイルは、現代という複雑な時代には全くそぐわないのです。現代という時代は、若い女性管理職でも年上の男性に指示を出して査定をする時代ですし、下の世代が持っている情報やアイディアを吸い上げることの出来る組織が勝つ、厳しい競争の時代でもあります。

(略)

財界でも、スポーツ好きのオーナーが「体育会出身者」ばかりを集めて経営をした結果、イエスマンばかりが集まって、最終的には経営破綻に追い込まれるような暴走を止められなかった、そんなケースがありました。これも、厳格な上下関係に基づくコミュニケーション様式の欠陥だと言えるでしょう。そうした事例は、例えば「派閥の領袖」に「陣笠議員」が従う構図や、新人議員が「幹事長のチルドレン」だとして独自の発言を封じられるなど、政界では有権者の「一票の格差」という憲政の基本を踏みにじるような光景に重なって見えてしまいます。

そして、

(前略)今回の参議院選で各党がスポーツ選手を大量に擁立したのは「現在の国民がフラストレーションを感じているのは、政治の混乱状態への不信感」だと喝破した上で、「ならば秩序に従順なスポーツ選手の方が好感度が獲得できる」という計算をしたのだと考えられます。商品のマーケティングでもしているのならなかなか見事ですが、仮にそうであれば政治としては退廃としか言いようがありません。日本の抱える問題に直面することからの逃避に他ならないからです。そうは言っても政治の場合は今さら「お抱え外国人顧問」に日本の改革を頼むことはできません。ならば、歯を食いしばって世論も、ジャーナリズムも、政治家も現状の問題点を直視すべきでしょう。選挙とはそのような機会であるべきです。
と結論している。
さて、後半についてはそうなのだろうと思う。問題は前半。その内容の是非というよりも(というか、それはまあもっともな意見だとは思うのだが)、寧ろその前提が問題だろうと思う。「日本の場合は、職業政治家になるためのキチンとした教育機関というものがなさすぎます」という。それはそうなのだろう。日本において「職業政治家になるための」「教育機関」があるとすれば、それは徒弟制度ということになるだろう。政治家先生の書生とか秘書になって、先生のパシリや身の回りの雑用をこなしながら、時には先生の代わりに手錠をはめられたり・臭い飯を食ったりしながら、段々と政治の政治のノウハウや掟を身に着けていく。こういうのが「職業政治家になるためのキチンとした教育機関」ではないことはたしかだ。それはそうなのだけど、そもそも「職業政治家」というのが存在していいのかどうかということを考えるべきだろうと思う。「職業政治家」という存在がはたして民主制と両立するのかどうかということを考えるべきだ。「職業政治家」の存在によって、かつての士/民というような、統治/被統治という構造が再生産されていないかどうか。
「政治の素人」という。しかしながら、民主制というのはそもそもが「素人」の政治参加の謂ではなかったのか。或いは、公事について、文句があるなら参加しろということ。また、「素人」ではなくプロとしての政治家に求められる知識や資質とは何なのか。勿論、政治家といっても、与党と野党では違うし、純然たるlaw makerとしての代議士と行政組織を統轄し・外国政府と直接渡り合わなければならない閣僚でも違う。さらに、衆議院参議院でも。このような違いはあるのだけれど、政治家が「ホンモノの金融政策とか公共サービスなどを国政的なレベルで実務能力として身につけ」る必要というのはあるのだろうか。そのような「実務能力」を持っている人は寧ろ官僚として頑張って下さいということにならないか。そうだったら、優秀な官僚がいれば政治家なんか要らないよということにもなる。そうではないだろう。そうした「実務能力」を批判的に吟味する能力の方が重要だろう。さらに言えば、「金融政策」や「公共サービス」について専門的にどのくらい知っているかというよりも、専門家たちに適切な質問を発する能力の方が重要だと言える。換言すれば、政治家は専門家であるよりも「博識の市民(well-informed citizen)」*3であることが求められる。「博識の市民」たることは、民主制社会においては「職業政治家」のみならず万人に要請されることだ。ということで、政治家に求められるのは公共精神と一般教養と適切な判断力という、民主制社会の構成員たる市民一般に要請される能力以上のものではない。寧ろ、優れた「職業政治家」を望む心性に〈名君〉による善政を望む封建社会の民の心性と共通するところがあるかないかを疑うべきだろう。
ということで、「政治の素人」というのは候補者を非難する言葉としては適切ではない。だから、「スポーツ選手」のみならず、ホームレスでも専業主婦でもAV女優でもサラリーマンでもミュージシャンでも何でも、政治にじゃんじゃん進出してかまわない。「博識な市民」である限りにおいては。