政治的な側面を付け加える

「そろそろ周回遅れの教育議論は止めにしよう」http://d.hatena.ne.jp/kechack/20100301/p1


議論の叩き台としては十分に(右に対しても、左に対しても)挑発的であり、これを元に実り多い議論が展開されることを期待する。ただ、もうちょっと具体的な話も欲しいので、これについてはkechack氏による続編に期待するしかない。特に、「教育」といっても、初等教育を論じているのか、中等教育なのか、高等教育なのかというのが必ずしもはっきりしない。それから、ここで採り上げられている問題に関しては、「教育の「個性化」「自由化」は必ず「教育の格差」を拡大させるか?」*1という教育社会学的立場からの検証の試みがあるので、併せて読まれるべきであろう。
以下、kechack氏のエントリーに少しコメント。
1980年代の「知識偏重の教育」批判だが、〈落ちこぼれ〉問題というのは大きかったと思う。例えば数学でも英語でも中二の段階でXX%が授業についていけなくなるといったことが取り上げられ、知識を詰め込もうとしてもかなりの割合の生徒が落ちこぼれてしまうのだから詰め込む量を減らして歩留まりをよくしろというロジックは、「ゆとり教育」へと到る議論の中の少なくとも一部にはあったのではないか。
「学力層別に教育を差別化」ということだが、戦前の日本や現在の独逸の複線的教育制度のように大っぴらではないが、戦後の教育制度においても、例えば高校の普通科/職業科の区別、高等教育における四大/短大、大学/専門学校の区別という仕方で暗黙的に行われてきたと言えるのではないか。良し悪しは別として。
教育問題を論じるには政治的な側面を無視することはできない。民主制を維持するためには、多くの人々が自分の専門外にもそれなりの見識を持った博識の市民(well-informed citizen)である必要がある*2。そのためには、高校教育や大学の学部における教育は(数十年前からのトレンドである)実学指向、技術的知識指向を改めて、リベラル・アーツ的な方向に向かう必要がある。また、詰め込み式の技術的知識は実は、イノヴェーションによる知識の陳腐化に為す術がないということもある。勿論、リベラル・アーツといっても、知識を詰め込むというより、寧ろ知識の探し方、知識の評価の仕方、知識のプレゼンテーションの仕方にフォーカスする必要はあるけれど。また、全員に画一的な知識を教授するというのは単一民族・単一文化を前提とした社会においては〈知的平等〉を保証するということが一応はいえても、多民族・多文化を前提とした社会においては〈知的平等〉を保証することはできないということは言える。

See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100219/1266520878 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100224/1267029840