Desperately Seeking Susan

「邪馬台国」と日本人 (平凡社新書 (073))

「邪馬台国」と日本人 (平凡社新書 (073))

「政治主導は国民主権http://taraxacum.seesaa.net/article/177997787.html


小路田泰直『「邪馬台国」と日本人』という本の「あとがき」が採り上げられている。この本は10年近く前に読んだし、以前(書名だけではあるが)言及したこともあった*1。勿論、当の「あとがき」も読んだ。当時のことを思い出してみると、私は小路田氏の〈国民主義〉にはちょっとついていき難いなとは思った。さて、「あとがき」に曰く、「民主主義社会を築き上げていくためには、あらゆるレベルの官僚制的専門家集団に対して、一般の国民が優位に立たなくてはならないが、素人が玄人に対して優位に立つためには、常識と経験に頼るしかない」。「それを体系化するための特別な知が、民主主義社会を維持・発展させていくためには必要になる」が「その特別な知が実は歴史学なのである」。勿論「歴史学」は重要だけれど、「特別な知」として「歴史学」を特権化するのはどうか。実は〈文史哲〉を初めとする所謂〈一般教養〉というのはみんな大事なのだろうと思う。要するに、「博識の市民(well-informed citizen)」*2になろうぜということである。その上で、「博識の市民」が使う〈知〉として特に重要なのは〈哲学〉だろうと思う。何しろ、「専門家」が操る知識や論理や情報と渡り合わなければならないのだから。河野哲也氏は


古代ギリシャで生まれた哲学は、当時の(不完全であるが)民主主義社会における市民のための知だった。
専門家と一般市民という分け方をするならば、あるいは、一人の人間のなかに専門家としての側面と素人という側面があるとすると、哲学というのは、一般市民のための学問であり、素人のための知である。
科学は、研究領域も方法論も定まっていて役割分担があり、その専門家は良くも悪くも権威をもっている。しかし、哲学は何を研究してもよいし、特定の方法論もない。哲学とは、一般市民が非専門家の立場から、既存の知識や常識に対して「それは本当に”正しい”知識なのですか。それは、吟味された生活に役立つ知識なのですか」と問いかける作業に他ならない。
哲学には特定の専門領域がなく、どんな問題にでも介入するのは、専門家ならぬ一般市民のための知だからである。(『暴走する脳科学』、p.30)
と述べている。
暴走する脳科学 (光文社新書)

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それはそうと、熟達した「素人」としての〈公共知識人(public intellectual)〉の意義も考えなければならないだろう。例えば、現在の日本にワイド・ショーのコメンテーターでもなく〈政治ブロガー(笑)〉でもない〈公共知識人〉はいるのかどうか。まあ public intellectualという言葉が生まれた米国においても、例えばスーザン・ソンタグ*3の死後、作家や学者やジャーナリストはいるけれどintellectualはもういなくなったという声もあるわけだが。勿論、「(笑)」抜きの〈政治ブロガー〉もいるわけだし、(党派的な意味で)〈政治的〉でなくとも〈公共知識人〉たると(少なくとも私は尊敬申し上げている)人は少なからずいるということは言い添えておかなければならない。
タイトルはマドンナの映画デビュー作から。
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