「民主」と「自由」

山本圭『現代民主主義』*1から。
カール・シュミット*2の「議会主義」批判。


私たちは民主主義と聞くと、議会でなされる討論をイメージしがちである。しかしシュミットによれば、そのような連想は間違いである。議会の本質は、主張とそれに対する反論からなる公開の討論にあるが、このこと自体、さしあたり民主主義の本性とは必ずしも関係がない。
ポイントは、議会主義に特有の討論の政治がそれ自体としては必ずしも民主主義的でなく、むしろ自由主義の伝統に属すということだ。「議会主義、すなわち討論による政治に対する信念は、自由主義の思想圏に属し、民主主義に属するものではない」(同書*3)とシュミットは述べている。議会での討論は多様な利害や意見を表出させ、それらの競争から正さや真理が帰結すると考える点で自由主義的なのである。
私たちの常識からすると、自由主義と民主主義はほとんどセットであり、両者が異質であると言われてもあまりピンとこないかもしれない。それは、私たちが自由民主主義をあまりに自明視してしまい、もともとは異質な二つの混合物であることを忘れているからだ。それが「自由主義の原理」と「民主主義の原理」であり、自由民主主義とはこれら二つの原理の偶発的な混合物にほかならない。(pp.39-40)

自由主義の原理は、人権や個人の自由、法の支配や立憲主義を含み、他方で民主主義の原理は、人民の平等や同一性を目指すものである。重要なのは、これら二つの原理はぴったりと補完しあうものではなく、両者のあいだにはたえず緊張が伴うことだ。
たとえば立憲主義は民主主義が暴走し、多数者の専制に陥るのを防止するものであるし、あるいは市場での行き過ぎた自由競争は人々の政治的平等を損なうだろう。そのため、これら二つの原理の結び付きを自明視せず、両者の結合が偶然的なものであると理解しておく必要がある。
さて、シュミットもまた、当時のワイマールの政治体制を自由主義と民主主義という異質な諸原理の混合物とみた。しかしシュミットは両者の緊張関係に我慢できなない。なぜなら、この不安定な結合物である議会主義のもとでは政治ががんじがらめになり、機能不全に陥ってしまっていると考えるからだ。それどころか、自由主義は本来の民主主義を損なってしまっているのではないか。そこで彼の関心は、民主主義を自由主義から切り離し、民主主義を純粋なものとして取り出すことに向けられる。(pp.40-41)

シュミットが民主主義に認めるのは、議会主義や公開の討論ではなく、むしろ平等である。ただし、これはすべての人間、生けとし生きるもの(sic.)皆の無条件の平等のことではない――この考えはむしろ、契約論に見られるような自由主義的な発想である。そうではなく、民主的な平等は「同質性」を条件とするのであり、そのかぎりで民主主義は異質なものの排除を容赦なく伴うだろう。統治者と被治者の一致、人民の一体的な同質性、これこそ純化された民主主義の原理にほかならない。このような立場からシュミットは、驚くべきことに、民主主義と「独裁」が両立すると断じる。(p.41)
私たちが「独裁」に対して抱くイメージは「独」という漢字に影響されているところが大きいのではないか? それに対して、英語のdictatorshipには「独裁」のように1(例えば一党独裁)を連想させる要素はない。dictatorshipが喚起するのは専らdictate(命令する/指図する)ということだろう。 
また、「自由主義」こそが「独裁」を呼び込むということも考えられ得る。「自由主義」を、政治からの自由、つまり政治参加から撤退してプライヴェートに引き籠る自由を強調したものと考える場合、その空白を「独裁」的な個人とか政党とかが填めるということは想像しやすい。他方、政治からの自由を行使した側にとっても、(ビジネスを含む)プライヴェートを邪魔しない限り、「独裁」は容認し得るということになる。新自由主義と「独裁」との相性のよさはこれと関係があるのでは?