美大ではなく

磯部涼『令和元年のテロリズム*1から。
「川崎殺傷事件」を起した岩崎隆一が育ち、また成年後に長期に亙って引きこもっていたのは川崎区麻生区多摩美という土地である。多摩丘陵を切り開いて造成された住宅地で、最寄りの駅は小田急読売ランド前
最初に岩崎の住所が川崎市の「多摩美」だと聞いたとき*2、??と思ってしまった。だって、「多摩美」というのは多くの人にとって、多摩美術大学の略称だよね。勿論、この地名は大学とは全く関係ない。


多摩美は広大な多摩丘陵の、東の端に造られた住宅街だ。もともとは山林や畑だった土地で、昭和32年に宅地開発が、34年に入居が始まった。第1世代は協力して都市ガスを引いたり、私道を公道へ変えたりと街づくりに取り組んだという。寺院がなかったため、41年には築地から浄土真宗・妙延寺を呼び寄せている。住居表示に”多摩美”が採用されたのは53年で、名はこの地の自然の美しさに因んだ。岩崎家の登記簿謄本を調べてみると34年に隆一の祖父が土地を購入して家を建てているので、まさに入居第1世代にあたる。(p.35)

岩崎家と同じ区画に住む90歳の女性は、玄関先でかつての多摩美の様子を説明してくれた。「昔、この辺りには蝶がたくさんいましてね。花に寄ってくる様子を楽しんでおりました」。昭和40年、都内の中高一貫校に理科の教師として勤めていた彼女と、同じく教師の夫が越してきた頃にはまだ家は所々に建っている程度で、多摩丘陵の自然が豊富に残っていたという。(略)「今。お隣の家が建っている場所も当時は原っぱだったのですが、岩崎さんのおじいさまが草を鎌で刈ったり、環境に気を使われていたことを覚えております」。女性は幼い隆一の姿も記憶にある。「ただ皆さん、実の兄弟だとばっかり思っておりましたからね……」(略)
女性が入居してからしばらく経つと、多摩美にも住宅が次々と建っていった。「最寄りの小田急線・読売ランド前駅から通勤していたのですが、電車が本当に混雑して、新宿駅に着いても今のように乗り換えが便利ではないので、いったん外に出なくてはいけなかった。私は背が低いものですから、雨の日は人様の傘が屋根のようになった下を通っていきましたよ」。岩崎邸は平成2年に所有権が隆一の祖父から伯父へと移っている。その時期に祖父が亡くなったようだ。女性は葬儀にも出席したという。(後略)(pp.36-38)
さて、多摩美には或る有名人が居住しているのだった。それは作家の島田雅彦*3(Cf. p.39ff.)。