「自分からそれほど遠くない存在」

青山真治*1「グレイト・プリテンダーたちの闇の奥」『波』(新潮社)617、pp.20-21、2021


磯部涼*2『令和元年のテロリズム』を巡る文章。


「同時代」と「同世代」は峻別すべきだが、そもそも何かが「同じ」であることを根拠に発生し言い寄ってくる同族意識を受容することはまずなく、ともあれ疑ってかかるきっかけは地下鉄サリン事件というか当時世間を賑わせていたオウム真理教をはじめとする新興宗教ブーム、さらにそれろ近接してあったオタク文化だった。今世紀の初めに公開された拙作『EUREKA』は、それなりに時代の気分を反映した映画だったが、完成後、カンヌ出品の直前である前年の五月、物語の発端と類似したバスジャック事件が、舞台も同じ九州で起こった。これがトラウマとなり、以来同族意識への嫌悪に拍車がかかったのはもちろん、そのようなスキャンダラスな社会性に関わることじたいを極力忌避してきた。(p.20)

それから十九年が過ぎ、年号が変わり、本書で最初に扱われる「川崎殺傷事件」*3は起きた。当日朝からの報道で事件の詳細と犯人像が朧げに知らされ、ピンと来た。これは自分からそれほど遠くない存在が起こした、と。(略)本書にとっても重要なファクターである、かれの二十年の引きこもりの絶望的な重さは、それまで世間を賑わせて来た様々な事件には感じられなかった。それらは畢竟犯人の過剰な「承認欲求」という用語で説明がつくことは本書でも触れる通りだが、この事件は根本的にそこが違っている。著者は「彼がいた暗闇」を「深い、底が見えない穴」と書いたが、携帯電話もパソコンもなく過ごした二十年の想像不能の絶望には「承認欲求」などなかった。「本当に実在したのか」と怪しまれるほどだ。
何かが「同じ」だと直感したからかもしれない。だが、いまだに何が「おなじ」かは説明できず、ただ著者がテロリズムについて定義する時に使った「社会全体で考えるべき」という批評家・東浩紀のフレーズは少なくともこのわからなさをフォローしてくれるかとも思われる。情報を求めてテレビを追ううち不意に出くわした「死ぬならひとりで死ね」という言葉への強烈な違和・嫌悪も、瞬間的に自分が間違っているかと怪しむほどこの「同じ」という言葉の曖昧な両義性に晒されるがゆえに発したものだったろう。いわばこうだ。
私は「同じ」ではないのに「同じ」だ。(pp.20-21)