「ナショナリズム」を巡る様々

磯前順一『石母田正 暗黒のなかで眼をみひらき』*1
石母田正が戦後『歴史と民族の発見』を中心に表出した「ナショナリズム」を巡って。


当時の石母田にとって、ナショナリズム、彼の表現でいえば「民族」なる言葉とは、なによりも、自己のうちにひそむ不透明さ、知識人のもつ合理性の限界を知らしめるものであった。彼がたびたび指摘している知識人のおちいりがちな限界とは、私たちが学問という言説に深くかかわってゆく過程で、「身ぢかな周囲」や「内面的なもの」への感性を喪失してゆくこととされる。たとえば、彼は従来のマルクス主義による歴史叙述を次のように批判する。

私たちは階級闘争の歴史をたくさん書きました。しかし地名のない、宙に浮いた階級闘争の歴史をいかに多く書いたかをかんがえます。階級闘争が、そこでは、相反する力と力との闘争というように抽象化され観念化され、闘争がおこなわれる場所や土地はどこかへ言ってしましました。……*2人間の生産が行われる場所としての土地、生活のいとなみとたたかいが行われる場所としての土地、人民の流された血が保尊座されている場所としての土地、たれにも知られず朽葉のように消えさった母たちのなげきが層をなしてつみかさなっている土地、一つ一つ表情の異なった土地、――これらの土地はみんな一つ一つの名前をもっています。名前のない人間が考えられないように、地名をはなれてはかんがえられない生きた土地です。それはそのまま民族であるような土地=地名です。
(「母についての手紙」*3
けっして概念化しきることのできない「伝統を保存する場所=生活」、それが石母田にとっての民族であった。その骨子をなす論文が「母についての歴史――魯迅と許南麟によせて」(一九五一年九月)である。そこで、石母田は過去の歴史が私たちの日常生活に根ざしたものであることを深く理解していなかったとして、次のように自己批判している。

一揆や蜂起の波が退いても、その伝統と精神が枯れずに次々の世代につたえられて行くためには、その伝統を保存する場所がなくてはなりません。そうしてこの伝統は宙に浮いているものではなく、観念として独立に存在するものでなく、それが歴史に意義をもつ力となるためには、いつでも人間の日常のいとなみ、生活の一部となっていなければなりません。この伝統を保尊する場所=生活こそが母たちの世界の一つの特質です。この生活のるつぼが基礎にあるからこそ、一揆も革命も孤立した事件とならずに、歴史の一部となることができました。(傍点は磯前)*4
(「母についての手紙」)
(pp.126-128)
フッサールの言葉を使えば)「理念の衣」*5を剥ぎ取り、具体的な場所性を恢復させる(ことを目指す)。しかし、何故このことが「民族」に還元されなければならないのか。理解不能。しかも、ここで謂われている「民族」というのはたんなる文化人類学的な意味での、習慣を共有した集団、ethnic groupではなく、きわめて政治的な概念としての「民族」である。
磯前氏は吉本隆明「芸術的抵抗と挫折」から、「社会から疎外された自己意識に耐えられず、日本の庶民意識に同化したとき、かつての「前衛」的意識は、内部にある「封建性の強大な諸要素」を共通根として横すべりする」という文を引用しているが(p.139)、石母田の「ナショナリズム」には「社会から疎外された自己意識」の癒しという側面もあったわけだ。

しかしそこには、リアルさの肉迫という欲求とともに、石母田が民族と呼んだ日常に己れを溶けこませてみたいという同化欲求もまた見て取れる。

かつての日本の革命的運動はその困難な条件のために、大衆との密接なむすびつきをつくりだすことができずに少数な先駆者の人たちの運動にとどまりました。それは大衆のなかにいかに外部から社会主義的意識をもちこむかという観点が中心であって、大衆自身が何を考え、何をもとめ、何を感じているかを知り、そこから問題を提起するということに関心をもちませんでした。
(「危機における歴史学の課題」*6)。  
石母田が自分を含む戦前のマルクス主義者を総括するときに、知識人の孤立は批判されるべきものとして戒めの対象になる。しかし一方で、知識人というものは、エドワード・サイードによれば「これは孤独をむくわれない生きざまといえば、まさにそのとおりである。……知識人の語ることは、総じて、聴衆を困惑させたり、聴衆の気持ちを逆なでしたり、さらには不快であったりすべきなのだ」(サイード『知識人とは何か』*7)。であるとすれば、民族への同化は本来的な知識人の孤立性を十分には引き受けることができず、日常のなかに呑みこまれてしまうばかりになりかねない。(pp.140-141)

風説の時期を耐えてきたマルクス主義史学者たちは、日本の敗戦とともに、一躍、指導的知識人の地位にのぼりつめる。これまでの流れからみて、一九五〇年代初頭の民族民主独立戦線の時期に石母田たちが主導権を握ったことも納得がゆこう。すでに彼らはナショナリズムにたいして無垢ではなかったのだ。しかし、石母田が民族という言葉に託した、学問に回収することのできない日常の余白は、その懸命の努力にもかかわらず、結果としてはスターリニズムの政治的論理に回収されていったと言わざるをえない。事実、この闘争が挫折するまえから、石母田たちに冷ややかな眼差しを向けていた者たちもいた。たとえば、ほどなく情事で命を落とす作家、太宰治マルクス主義者たちの活躍ぶりにこのような記念を呈している。

人間の心には、もっとわけのわからない、おそろしいものがある。欲、と言っても、言いたりない、ヴァニティ、と言っても、言いたりない、色と欲、とこう二つ並べても、言いたりない、何だか自分にもわからぬが、人間の世の底に、経済だけでない、へんに怪談じみたものがあるような気がして、その怪談におびえ切っている自分には、所謂唯物論を、……希望のよろこびを感ずるなどという事は出来ないのでした。 (太宰『人間失格*8
(pp.146-147)

石母田が前提とした「民族」にも「英雄」にも回収できない、自らのうちに巣食う不安や憎悪、それをどのように分節化された言説のなかへと組み込んでいくことができるのか。私たちが再編されてゆく権威は、党や民族だけでなく、職場や家族など、日常のいたるところに潜んでいる。心の闇を見据えられなければ、ナショナリズムは感情という衣装をまとって何度でも憑依してくる。私たちは言葉を導きの糸とすることで、心にひそむ不確かさのなかに降りてゆくこともできる。言葉を隠れ蓑にして、そこから眼をそむけることもできる。(後略)(pp.148-149)