聖書とニーチェ

磯前順一*1石母田正』から。
先ず宮城県石巻を巡って;


一九一二年九月九日に石母田正*2は北海道札幌市で生まれた。しかし、生まれて程なく、父正輔が、かつて先祖が仕えた仙台藩の所領の一つ、宮城県石巻に町長として招かれる。故郷への凱旋である。それに伴って、正少年は彼が東京帝国大学に合格して、上京する一九三〇年四月までの一八年間、その少年時代を石巻で過ごすことになる。
石巻市住吉町の北上川西岸に隣接する石母田家の前には、太さ一メートルにも及ぶ大きな柳の木があり、川に沿って生みから吹いてくる風にいつもなびいていた。夜半目が覚めると川の凍り付く音がきしんで耳にはいってきたという。そもそも石巻という地名は、石母田家の隣にある河畔の渦巻き石に、川幅二〇〇メートルにわたる北上川の水が流れ込み、見事な渦を巻くことに由来する。(p.24)
石母田家の先祖について;

正少年は仙台藩の重役を務めた名門の家に生まれた。石母田家は元をたどるならば、現在の福島県伊達郡国見町におそらく鎌倉時代頃から、戦後時代まで居館を構えていた。現在も国見町石母田字館ノ内に、石母田城の三重の郭跡や土塁などが残されている。国見町は現在では福島県の一部だが、当時は仙台伊達藩の所領であり、福島盆地から仙台に抜ける峠のある奥州・羽州海棠などの交通の要衝として知られる場所であった。(pp.31-32)

石母田の一九五二年の随筆「私の読書遍歴」では、自分の愛読書が『聖書』であったことが語られている*3。その理由は直接には記されていないが、「汝の敵を愛せよ」というような隣人愛の倫理が、おそらくその後の石母田の社会主義運動へのコミットメントを支える動機へと発展していったものと思われる。キリスト教の雑誌『六合雑誌』に早くからマルクス主義が紹介されていたように、明治時代においてはキリスト教マルクス主義呉越同舟の反権力思想であった。双方とも万人に平等な地上天国の実現を目指す点では、一致していたからである。
下部構造論を乗り越えるに当たり、石母田にとってキリスト教とともに重要だったのはニーチェである。石母田は、和辻哲郎『ニイチエ研究』(一九一三年)や和辻哲郎訳『ニーチェ書簡集』(一九一七年)、さらには『三太郎の日記』(一九一四年)で知られる阿部次郎の『ニイチエのツァラツストラ 解釈並びに批評』(一九一九年)を経由して、ニーチェの妹エリザベートによる『ニーチェの生涯』(原著一九二一年、日本語訳一九四〇年)のニーチェ理解にたどり着く。当時の日本の読書界では、「生の哲学、戦闘的哲人、人格主義などの面」からニーチェの思想を解釈した時期であった。
鉄の檻のような社会主義の官僚制でもなく、人民支配のためのイデオロギー統制でもなく、個々の多様性を認め、その多様性がsじゃ界を支えるような、人の顔をしたマルクス主義、冷徹な下部構造論に回収されることのない、人間主義的な史的唯物論を石母田が終始構想し続けてきたゆえんでもあろう。(pp.32-33)

生涯、啓蒙主義者であった石母田にとって、宗教的な回心は起きることなく、黙示録のような終末思想や贖罪思想は関心の埒外であったと考えられる。彼のキリスト教理解はユニテリアンのような、人間と人間の倫理に留まるものであった。それは、後に石母田がその英雄理解に影響を受けた山路愛山のユニテリアニズムのように、宗教は世俗的な倫理へと純化されていくべきものと考えられていたからである。その点で、宗教はアヘンであるとして、そのイデオロギー性に注意を喚起するマルクスの考えと同じように、人間の理性を宗教よりは高く評価していたのである。
石母田が手にした和辻『ニイチエ研究』のなかで、「現在宗教と呼ばれるものが生の否定の傾向であると断言する」のが、ニーチェの、キリスト教をはじめとする宗教論であると紹介されている。特に、ニーチェは「キリスト教は奴隷階級より生まれて、強烈な生活を経験したことのない者が、力強き者優れた者に対して感ずる嫉妬と反感と復讐の上に立っている」という批判をしていたことを、石母田は和辻の議論を介して理解していた。おそらくは、宗教の否定のうえで、ニーチェが拠って立つ立場に石母田は感銘を受けたはずである。(p.34)