徳田御稔など

岡田節人氏の自伝的語り「ルイセンコの時代があった」*1の中に、(1950年代初頭)「京大の徳田御稔(みとし)の書いた『2つの遺伝学』という本はバイブル並みにもてはやされた」という部分がある。この徳田御稔については、


Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E7%94%B0%E5%BE%A1%E7%A8%94
大舘智志、金子之史、岩佐真宏、本川雅治、三中信宏*2「哺乳類学者・進化学者 徳田御稔の足跡」『哺乳類科学』51-1、pp.206-211、2011 http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/46833/1/51_206.pdf *3


また、


三中信宏「ルィセンコ主義はなぜ出現したか(書評)」http://d.hatena.ne.jp/leeswijzer/20100923/1285369487


これは藤岡毅『ルィセンコ主義はなぜ出現したか:生物学の弁証法化の成果と挫折』という本の書評。


裕福な家庭に生まれた徳田は,本来の気性は引っ込み思案で,学生の頃はきざなところもあったという.ネズミ類の分類学者としての研究活動していた頃の徳田には,戦後の「左翼的活動」を予期させるものはなかったようだ.徳田御稔がマルクス・レーニン主義の洗礼を受けたのは,戦死した可児藤吉生態学者)からマルクス資本論』をはじめとして教えを受けたからだとのこと.戦前戦中を通して京都には思想的にリベラルなコミュニティがあり,徳田はそこからもさまざまな情報を得ていたらしい.

 地団研井尻正二が敗戦直後から日本共産党の科学技術部長として共産党の最前線で活動していたのとは対照的に,徳田御稔は最後まで共産党員ではなかった(後年はむしろ“反代々木”).徳田の『二つの遺伝学』に見られるソヴィエト寄りの内容・文体から想像される人物像とは大違い.徳田御稔は「話す」とマイルドなのに,「書く」と激烈になるという癖があった.それは意図的に「文章では主張を明確に」という主義をもっていたからだそうだ.人格的には決して頑固ではなかったとのこと.

 徳田御稔がルイセンコ学説を信奉していたのは,政治的ではなくむしろ生物学的な理由による.生物の地理的変異に関心を持ち続けた徳田が,ミチューリン会の下伊那試験地での「ヤロビ農法」に共感をもったのもその理由による.とりわけ,ルイセンコの種概念には強く賛同していたらしい.ソヴィエト共産党内での1920-30年代の「文化革命」で勝利した「ミーチン主義」は弁証法唯物論の自然科学に対する優位を“政治的”に決定づけた.しかし,ミーチンの文献はすでに京都のコミュニティでは読まれていて,その空虚さへの批判があったらしい.

 むしろ徳田御稔が強い影響を受けたのは,ミーチン主義がスターリン=ソヴィエト共産党の中央綱領と化す前の,ソヴィエト遺伝学がまだ全盛期だった頃の生物学的成果の方だったとのこと.徳田は,政治的に活動するよりも生物学者としての顔を持ち続けたようだ.ある意味でピュアだったのかも.

当時としては、階級性とか陣営の問題が表面に立てられ、ヘーゲルマルクス弁証法という〈理念の衣〉が着せられていたのだろうけど、ぶっちゃけ、ルイセンコ問題というのは、ダーウィンかラマルクかということだろう。ラマルクの思想は素朴な功利主義なので、常識ともフィットしやすく、却って根深いところがあるのではないだろうか。決して蘇聯や左翼だけの問題ではない。ギ・ソルマン『二十世紀を動かした思想家たち』*4の中のスティーヴン・ジェイ・グールド*5にインタヴューしている節で、ソルマンは「進化に関するラマルクの概念が相変わらずもてはやされていることは、グールドも認めている」と書いている(p.60)。

「それはラマルク説が安心感を与える理論だからだ」とグールドは答える。
この学説によると、努力が報われる、つまり形質は後天的に得られると考える。これは倫理に添うものだ。形質が伝わっていくとみなされるからだ。そのため、とりわけフランス人はいつもこの理論に強い愛着を抱いている。(後略)(ibid.)
二十世紀を動かした思想家たち (新潮選書)

二十世紀を動かした思想家たち (新潮選書)