「英雄」余波

磯前順一『石母田正 暗黒のなかで眼をみひらき』*1から。
所謂「英雄時代論争」について。
「英雄時代論争」とは、1948年に発表された石母田正の「古代貴族の英雄時代――古事記の一考察」(in 『神話と文学』)を巡って、1950年代初頭に展開された論争。


さて、この石母田が精魂を傾けた英雄時代論文によれば、原始時代末期の日本各地には民主的な共同体が割拠していたが、それらは新たに台頭してきた天皇制国家のまえに敗北していったという。英雄時代とは、この民主的共同体の拮抗する原始時代末期をさす。
ただし、それは牧歌的な時代などでなく、古代国家の形成へとむかう混乱と激動の時期であり、そのなかから民族精神が立ち現れてくる。この英雄時代を後代になって回顧したものが叙事詩であるが、日本の場合、叙事詩は結晶することなく、天皇制国家の所産たる記紀のなかにかつての記憶がかすかに散見されるにすぎないという。そして、石母田の見解の是非をめぐって展開されるのが後年の英雄時代論争である。(p.158)

(前略)英雄時代論文が『論集史学』に収められて世に出たのが、執筆の翌年、一九四八年一二月のことである。それをうけて翌年には雑誌『文学』の特集「変革期の歴史と文学」で西郷信綱*2と川崎庸之が英雄時代を論じ、一九五〇年にも民主主義科学者協会歴史部会主催の「英雄時代のシンポジウム」が開かれる。しだいに英雄時代をめぐる議論は活気を帯びてゆき、五一、五二年の歴史学研究会大会、「歴史における民族」および翌年五月の同大会「民族の文化について」でその熱気は好天に達した。(pp.162-163)

しかし、一九五〇年代の英雄時代論争には、四七年に書かれた石母田論文にはみられない側面がある。その代表的論者であり石母田の朋友でもある藤間生大はその違いをこう説明する。

石母田の英雄時代論は……日本の古代文学は、なぜ貧弱な古代貴族の英雄像しかえがくことができなかったのかという発想にもとづいて、天皇制とそれによる思想に対する批判に目標がおかれた……しかるに私は……古事記にあらわれた「やまと・たける」の話を、「民族」の英雄とし、民俗文化の一つにし、更に朝鮮の朴竜喆*3などの近代詩人につないでいったのである。同じように英雄時代論を取り上げたのに、「やまと・たける」の解釈に関するかぎり、大きな違いが、石母田と私の間にあった。 (藤間「世界史の方法論としての民族理論」)
中華人民共和国の樹立、朝鮮戦争の勃発など、東アジアにおける共産主義勢力の台頭が米ソ間の金箔を高めるなか、占領軍は日本の当地方針を国内の国家主義勢力の一掃から、反共の前線基地へとその位置づけを変えていった。それをうけて日本政府もレッド・パージ、独占資本の保護など、民主化をはばむ政策を行いはじめる。この政治状況のなか、藤間は日本共産党の民族独立運動の学問的実践として英雄時代論を取り上げた。(pp.163-164)

(前略)英雄時代論文は、たんに権力に対峙することを意図したものではない。そのようにしても人民の権威に依存する体質は克服できないという認識のもと、権力のもつ支配の正当性を被治者たる人民の問題として解明してゆこうというものであった。それは支配権力と被支配層を二元的に分かつものではなく、むしろ両者の関係性をしっかりと把握することから権力の秘密に迫り、そのなかで人民がどのように主体性を確立することができるのかを探る試みであった。
しかし、藤間に代表される一九五〇年代前後の英雄時代論では、権力を人民側から捉えかえすという姿勢が後退し、アメリカ帝国主義に抗して民族独立をとなえる反権力的陣営の歴史的象徴となった。この流れは、英雄時代論争に留まるものではなかった。先の五一、五二年の歴史学研究会大会をはじめ、日本文学協会や日本史研究会、あるいは雑誌の『文学』や『季刊理論』があいついで特集をくむなど、歴史学全般および国文学において民族文化をめぐる問題がひろく取り上げられた。さらに、この動きは歴史学では国民の歴史学、国文学では国民文学論と、学者と国民との政治・文化的な連帯運動へと展開していった。
(略)『歴史と民族の発見』のなかで石母田は自分の立場を民族の解放と帝国主義にたいする闘争に求め、民族戦線結成のために大衆の中に潜在している正しい民族意識を呼び起こすことが歴史学の任務であると述べた。
こうして、日本国民の歴史的記憶の分析として出発した戦後の英雄時代論は、一九五〇年前後には激化する政治闘争のなかで反米=民族統一戦線という現実の政治的立場を示すものへと、その意味づけを変えていった。英雄時代論は特定の党派性を自明の真理としたうえで、その党派性に正当性を与える役割に転じてしまう。しかも、この変化はそれまでの打倒天皇制に主眼をおく反民族=人民統一戦線との対立を招き、革新陣営の内部に亀裂を走らせる。
ここには、同じマルクス主義の立場に立ち歴史学者であっても、民族理解をめぐって明確な対立が存在したことが明示されている。当時、「民族nation」なる概念は、階級の存在を否定するような「人種はもちろん、民族性、その他の観念的、超歴史的な特質」として理解される一方で、「社会の歴史的カテゴリー」として捉えられていた(「歴史学における民族の問題」*4)。
前者の理解は戦前の国家主義の流れをくみ、天皇制をその象徴とする。これを肯定する保守主義者はもちろんのこと、北山茂夫井上清*5ら革新層もこの意味のもとで理労働者階級に敵対する封建的概念として民族を捉え批判した*6p.。後者の理解は、石母田・藤間ら一九五〇年代のマルクス主義的な民族論者に典型的なもので、帝国主義支配に対置させるなかで政治的独立を主張する。民族概念の理解の齟齬が生じたまま、前者からは後者を反動的であるという批判が、後者からは状況認識の遅れがあるという批判が浴びせかけられた。(pp.165-166)
 
因みに、この「民族」を巡る対立は、1950年代前半において日本共産党宮本顕治らの「国際派」と徳田球一らの「所感派」に分裂していたことと関連している。石母田や藤間は「所感派」に属しており、北山や井上は「国際派」に属していた(p.167)
なお、私が「英雄時代」というコンセプトを初めて知ったのは、石母田の『平家物語』という本を読んだときだった。