「饒舌な失語症」

小林敏明『柄谷行人論』*1から。
柄谷行人の最初の評論集『畏怖する人間』を巡って。


柄谷の処女作は一九七二年に出版された『畏怖する人間』である。過剰なまでに敏感な対人感覚がもたらしたこの作品は、いわゆる「文芸評論」としては、かなり異質な著作である。そこには、扱われた作品の解釈や批判というより、むしろ評者柄谷行人自身の恐怖、不安、懐疑、不信、疎隔感、違和感といったものがいたるところに表白されているからである。奇妙な言い方をすれば、その表白は饒舌な失語症とでもいうべきものだ。(略)じじつ言葉そのものへの根本的な不信は、この著作が扱っているテーマのひとつでもある。この言葉への不信に発する言葉による記述としての饒舌な失語症、これが柄谷行人という思想家が誕生とともに負わざるをえなかったパラドックスであるが、本人によってそのパラドックスの意味が解明されるのは、もう少し後のことである。(p.28)
離人症」;

(前略)この著作に展開されているのは、さしずめ離人症*2の世界である。離人症とは、事物があることを知覚認識できても、それがあるという実感をもてないこと、そしてその障害をこうむった対象認識に対応するかのように、それを認識する主観たる自分の方も、自分が自分であるという実感をもつことができないという事態のことをいう。つまり自己の側も対象の側も疎遠なものとしてのみとらえられ、悟性認識と感情ないし実感とが乖離してしまう状態のことである。精神病理学者の木村敏*3は「どういってよいのかわからない大変な恐怖感」にとりつかれたある離人症患者の次のような言葉を書き留めている。

自分というものがまるで感じられない。自分というものがなくなってしまった。(中略)*4私のからだも、まるで自分のものでないみたい。だれかの別の人のからだをつけて歩いているみたい。物や景色を見ているとき、自分がそれを見ているのではなくて、物や景色のほうが私の眼の中に飛びこんできて、私を奪ってしまう。(中略)*5とにかく、何を見ても、それがちゃんとそこにあるのだということがわからない。色や加阿知賀目に入ってくるだけで、ある、という感じがちっともしない。*6
(pp.28-29)
夏目漱石の『坑夫』を論じた柄谷のテクスト;

『坑夫』の自分がいっているのは、自分が自分でないような気がすることと、外界が現実のように感じられぬことである。このことは、べつに彼の反省や知覚までをそこなうわけではないのだが、自分自身のように感じられないだけだ。だから、手配師の長藏の誘うままに、ふわふわと坑山までついていってしまうのである。(Cited in pp.29-30)
また、柄谷自身の「心情吐露」;

率直にいえば、私自身にも現実感はほとんど稀薄である。むろんそれは私が「現実」に目をそむけているという意味でも、関心をもたないという意味でもない。関心ならありすぎるほどあり、それでいて何の痕跡も私の内部にとどまらぬという意味である。(中略)*7
見かけは華々しく「現実」に接触しているようにみえながら、実は深い霧のなかに沈みこんでいる。どんな重々しい切実な体験も、この霧にのみこまれると、たちまちはてしなく遠のいていく。たとえば「全共闘」運動があり三島事件があり、おびただしい事件があった。しかしその渦中にいた私と現在の私とのあいだに確実な自己同一性を認めることはできない。あえて認めようとすればするほど、言葉は虚偽にまみれてしまう。「現実」はある、が現実感がない。とすれば、むしろ「現実」の方が疑わしいのだというべきだろうか。(Cited in p.30)
柄谷はこうした「現実感」の「稀薄」を、時代や世代といった「歴史」や精神病理に還元することを「拒否」している。


私は、自意識、近代批判、心理分析、言語論、思想史、そういうもので成り立つ批評に興味がない。(中略)*8そこでは、個人が特定の時代のなかで一回的に生きているということそのもののリアリティと、同時にそれにもかかわらずなにか永続的な形相においても生きているということのリアリティが、微妙に交錯しあう両義性が切りすてられている。
問題の核心は、この一回的な生のリアリティに重なる永続的な生のリアリティにある。あえていうなら、それはモナドとして生み落とされた人間だれもが宿命のように負わざるをえない「存在することの居心地の悪さ」とでもいうべき実存的感情である。サルトルの『嘔吐』*9カミュの『異邦人』*10の主人公に一度は感情移入したことのある読者ならば、心のどこかに心当たりを覚えるような感情と言っていいかもしれない。とはいえ、この居心地の悪さは、だれのなかにもありながら、だれによっても自覚されるというわけではない。それは「あること」に過敏な少数の者たちの意識にのみ上がってくるような感情であり、たとえばサルトルカミュのほかにも、キルケゴールハイデッガーレヴィナスといった哲学者たちがある種の極限状態で経験したような、しかも容易に言葉になりえない不安の根本気分に接近しているものである。だからそれが狂気に接近するのも、ある意味では当然のことである。(pp.31-32)

*1:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/05/19/150507 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/05/21/160440 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/06/07/140850 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/06/12/140345

*2:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20161104/1478225290 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/08/09/023753

*3:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090212/1234410059 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110603/1307042637 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20131121/1385003012 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20140721/1405912487 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20161104/1478225290 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20161125/1480088706 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20180913/1536809208 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/01/19/010411 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/08/09/023753

*4:小林による省略。

*5:小林による省略。

*6:『自覚の精神病理』。

*7:小林による省略。

*8:小林による省略。

*9:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20101007/1286457491 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20110506/1304705687

*10:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20110807/1312693037 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20130317/1363489672 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20131215/1387127105 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/03/18/021720 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/12/30/093107 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/07/05/165319 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/08/25/232133