「精神の糧」など

大友良英*1「文化の役目について:震災と福島の人災を受けて」http://www.japanimprov.com/yotomo/yotomoj/essays/fukushima.html


「3月は、正義感とベクレルの狭間に立って知恵熱を出して、もうダメだってなった」というのは笑ってしまった。それはともかくとして、


あのさ、こんなおもしろい世の中ないじゃないですか。おもしろいっていうか、もうモンティ・パイソンの中にいるような感覚を覚えるんですけど。おかしいよ。おかしいよっていうかさ、だって、殺りくに近いことが起こっているんだよ。ただし、ゆっくり殺すっていう、ものすごいDEATHな感じだよね。何十年かかけて殺す。死なないかもしれない。法に触れないやり方でジワジワと住めなくしたり。オレはこれは、非人道的な事態だと思うんです。

なのに、いまだにテレビを見ると、火力発電だってCO2を出すでしょうとか、そういう話になるんですよ。火力発電がCO2出すのはその通りで、原発にも欠点もあるし、いいところもあるんだと思う。だけどこれは、非人道的な事態だということを、オレは、はっきり言った方がいいと思うんです。人殺しに近い、と僕は思っているんですよね。実際に、ナイフでグッて刺すと分かりやすいけど、そういう分かりやすい事態ではないことはとても厄介で。ナイフで刺すという例えはこの先もしていきますけど、すごく分かりやすいじゃない。ナイフでグッて刺したら、それは良くないよなって思いますよね。刺された人は、それは良くないよなって思う暇もなく、痛てっ!となると思うんですけど、これが、ものすごく長いスパンをかけて起こっている、と僕は思っているんです。

それだけじゃなくて、いきなり住む場所を奪われるということも起きている。水力発電も同じじゃないかという意見もありますが、水力発電で村が消滅することとは、僕は、比べちゃいけないと思います。水力発電の場合も非人道的かもしれないけど、合意の下に形成されている。だけど、今回の事態は、少なくとも合意ではないし、明らかに非人道的な事態が今、起こっているんだと思います。僕はそのことをまず、みんなに押さえておいてもらいたいと思っています。原発推進でも反対でもいいです。それは、それぞれが考えることだけど、少なくとも今、福島では、非人道的なことが起こっていて、僕は、非人道的なことは良くない、と思ってます。それが、イコール原発が良くないかどうかということは、僕が今ここで言うことじゃない。それぞれが判断すればいいと思ってますが、まずそこは押さえておいてください。その上で話を進めたいと思います。

という箇所を抜書きしておく。よく原発事故で死人が出てないじゃないかと言う人がいるのだが、逆に現時点で死人が出ていないことこそが恐ろしいんじゃないかと思っていた。じわじわと10年以上のスパンで効いてくる。また、何時までこの状態が続くのかも未確定、等々。
「文化の役目」――大友氏の主旨から多分ずれているのだろうけど、小泉義之デカルト=哲学のすすめ』から少しメモしておく。サルトルの「飢えた子供の前で文学は無力か」という問い(p.20)について;

(前略)第一に、飢えた子供の前で文学は「無力」であるに決まっている。飢えた子供の「力」になるのは、水や食物であって書物ではないからである。飢えた子供を救えという道徳的要請は、具体的には、飢えた子供が水や食物を享受できるようにせよという要請以上でも以下でもない。第二に、「文学」の価値を、現状変革のための有効性によって計測するという文学観は、残念ながら今や失効している。文学の価値は面白いか面白くないかで計測されるし、文学はそれ以上のものでもそれ以下のものでもない。第三に、人間としての使命は、飢えた子供に水や食物を与えるということであるが、文学者としての使命は、飢えた子供に文学の喜びを分かち与えるということであろう。だから文学者としてのサルトルは、飢えた子供にとっても『嘔吐』は面白いのかと問うべきであった。そして、異議申し立てという形式で文学を延命させようとするのではなく、いかに悲惨な状況においても文学は精神の力となると言い切るべきであったのだ。(p.26)
デカルト=哲学のすすめ (講談社現代新書)

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