厄年問題

タマニチェンコ「「独身40代の孤独」の正体とは」https://qtamaki.hatenablog.com/entry/2018/09/04/232627


ここでいう「独身40代の孤独」問題、或いはアラフォー問題というのは、新しい問題であるように見えることもあるけれど、昔風に言えば〈厄年〉の問題ということになるのだなと気づいた。最近の事例でいうと、あの「低能先生」問題*1も厄年の問題だったわけだ。
さて、「孤独」な増田たちの声たちが言及されているのだけど*2、先ず言っておかなければいけないのは、40代というのは仮に80代まで生きるとしたら、その折り返し点、人生の午前中が午後になる時期だということだろう。それは可死的存在(mortal being)としての私たちすべてにまとわりついてくる問題なのだけど、特に「独身」者はそれに対して、敏感或いはヴァルネラブルであるということだろうか。
40代が「袋小路に追い込められ、打つ手がないという窮状に陥」る幾つかの理由が考察されている。曰く、


まず、自分が強く感じていることは、若い頃にあんなに輝いていて大切だと思えたものの価値が、すっかり色あせてしまうということです。

若い頃は、朝まで飲み明かして「バカ」をやっていることが楽しいと思っていましたが、今では酒も止めてしまいましたし、友達と会う機会もすっかり減りました。

新規に「バカ話」が補給されないため、久しぶりに会った友達とも「昔話」ばっかりするようになります。これもまた一抹の寂しさを感じる要因となります。

学生時代や20代は、みんな未熟で物も知らないので話題も限られ、価値観も似たり寄ったりです。同じようなことに興奮してゲラゲラ笑い、憤り、悲しんでいたわけです。自然と連帯感が生まれ、「仲間」というものに大きな価値観を感じます。しかし、30代40代と色々な経験を積んでいくにつれ、成長の度合いや歩んできた人生の経路によって、それぞれの価値観にバラツキが出てきます。上司や社長になる人間もいれば、非正規や働いてない人もいたりして、それぞれの立場で見えるものが異なるため、会話がギクシャクしてきます。結果的に、昔話や健康問題なんかを話すしか共通の話題が無いのです。そこにかつて感じていた高揚感や一体感はありません。かつての思い出の余韻に浸るか、淡々と知識の交換をしていくわけです。

そこには、祭りの後のような寂しさが漂うだけです。

木村敏先生の『時間と自己』*3に従えば、「祭りの後」というのは鬱病に典型的な時間性である。
時間と自己 (中公新書 (674))

時間と自己 (中公新書 (674))

また、「恋の火が消えてしまった寂しさに対する絶望」として、

体からも心からも瑞々しさが失われます。飲んで馬鹿をする楽しさに加え、気になる女の子に恋をする楽しさも奪われます。

40代まで独身であった者ならばなおさらです。恋の仕方も知らぬまま、「体も心も衰えてしまった」という窮状に陥ります。もはや、どこに行って誰と会えば恋人ができて、ましてや結婚できるのか想像もつかないという状況にうろたえます。20代や30代ならば、努力やきっかけさえあれば「何とかなるかもしれない(けど何もしない)」といえるかもしれませんが、40代ともなると一段深く、「もう努力やきっかけでは埋められない」という絶望にシフトしていくわけです。

知っている人がこの世から消えていくこと;

40代ともなると、親が年老いたり死んだりしていきます。

「無くしてわかるありがとさん」といいますが、親が死去したり、経済的な能力を失ったりすると、今まで何だかんだ最後のセーフネットとなっていた後ろ盾を失います。

自分は、独立心が強い方で、親に頼ったことはほとんどないのですが、それでも失ったことにより、心細さを感じています。

そして、失っていくのは親ばかりではなく、親戚関係も減っていきます。親がいなくなれば、親の親類とのつながりも希薄になるので、一気に孤立した感じになります。

本当は、「した感じ」ではなく、はっきりとした「孤立」です。よりリアルに、実体と実感を伴った純粋で黒々とした冷たい孤独が鼻先に迫っていることに気づくのです。

また、既知の領域が拡がることの副作用;

好奇心や知的探求心の源泉は「無知」です。「知らないことを知る」とか「新しい体験をする」といったことが大きな喜びを与えてくれるのですが、当然ながら知識や経験が蓄えられていく毎にこれらの刺激は小さくなっていきます。増田の中にも、今まで絶対の価値を確信していた趣味や興味分野に対しての情熱が冷めてしまったことに驚きや失望を感じているケースがあります。
最後のことを巡っては、別の場所で異論までは行かない何かをいいたいということはあるのだけれど、まあそんなもんなんだろうなと思った。
問題は、タマニチェンコ氏が提示する解決策だろう。先ず、「子供を作ること」だという。「子宝というのは、まさに宝で、すべてが色あせる40代に新たな価値観を与えてくれます」。たしかに、子どもを持つというのはいいことだけれど、「独身40代の孤独」の理由として、「恋の火が消えてしまった寂しさに対する絶望」が挙げられ、「どこに行って誰と会えば恋人ができて、ましてや結婚できるのか想像もつかないという状況にうろたえます」と書かれている。「子供を作る」ためには、法的な結婚はともかくとして、恋愛をしてセックスをしなければいけないわけだ。何というか、例えばネットが繋がらなくて、プロヴァイダーのサポートに電話しているのに、詳しいことはウェブで見てねと言われた感じ。
ただ、厄年問題というか、ここでいう「孤独」問題というのは、原理的にはどんなにリッチでリア充な生き方をしている人でも陥ってしまう可能性がある。ちょっと考えてみたのだけれど、これは私たちは幾らでも、今生きているのとは別様の生き方を想像できるけれど、実際に選択できるのは1つしかないという事実のせいだろう。選択肢は沢山(もしかしたら無限に)あるのに実際は選択できない。何故なら、人生は1回だけだからだ。ここから、後悔という実存的境位、或いは機会費用という経済学的問題が出てくるわけだ。話を戻すと、これまで子作りにあまり興味がなかったカップルに、「子供を作ること」を勧めるというのはありかも知れない。但し、〈不妊〉に悩んでいるようなカップルに対しては、「絶望」ならぬアノミーに突き落としてしまうことになる。
最後に「瞑想」が推奨されている;

ウィパッサナー瞑想などのマインドフルネス瞑想によって、如実知見や洞察知を体得することができれば、孤独であることが気にならなくなります。

心静かに至上の楽である涅槃に達すれば、怖いものなんて何もありません。

家族や仕事に追われる毎日では、本格的に修行したり出家したりするのは難しいですが、孤独であるということは、「しがらみがない」ということでもありますので、大胆に人生のかじを切ることだってできます。

心の平安を取り戻し、本当の自由を謳歌してください。

日本語の基礎;

色は匂へど
散りぬるを
我が世たれぞ常ならむ
有為の奥山今日越えて
浅き夢見じ
酔ひもせず
遁世というか、少なくとも平安時代以降の日本人にとっては、王道の余生と言えないこともない。「40代で孤独ならば、瞑想し放題なので実はチャンスともいえます」。しかし、「孤独」は意外と深刻な落とし穴を掘る可能性があるのではないか。その一つは魔境に陥るリスク。私の仏教理解はタマニチェンコ氏のそれとは少しずれているのだと思う。私の仏教理解では、仏教では二つの矛盾したことが要請されているのではないかと思う。一つは、救済(解脱)は絶対的な自己責任において行われなければならない。二つ目として、しかしながら、救済(解脱)は僧伽という共同性において遂行されなければならない。僧伽という共同性というのは、通時的に考えると、私の修行というのは釈尊以来の高僧方・名僧方の系譜の中にあるということだろう。共時的に考えれば、信者仲間や師匠の存在ということになるのだろう。ここでも難問があって、それはその信者仲間や師匠が本物なのか偽物なのかというのは事前には知り難いということである。だから、見出した師匠が実は麻原彰晃みたいな奴で、気がついたらサリンを撒かされていたという可能性もある。この絶対的な自己責任はそのようなリスクを引き受けるということも含むのだろう。
もう一つ、リア充限定でお薦めしたいのは、一言で言えば、


目指せ腹上死!


ということになるだろうか。快楽が昂まりすぎてその最中にぷっつりと切れてしまうことも厭わず(或いはまさにそれを目指して)エクスタシーを最大化すること。ジョルジュ・バタイユは死に至るまでの生の高揚と言っていた。上で言及した木村敏先生の時間論によれば、祭りの真っ最中というのは癲癇の時間性なので、これは癲癇への転換ということになる。
ところで、かなり以前に宮台真司氏が〈失楽園〉というのはオヤジにとっての「ハルマゲドン」なのだけど、実現可能性は殆どないので実際には社会的に無害なのだというようなことを言っていなかったっけ? 多分、『野獣系でいこう!!』に収録された江川達也との対談で*4

野獣系でいこう!! (朝日文庫)

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