社会性の起源

合田正人吉本隆明柄谷行人*1から。
柄谷行人はその吉本隆明論「心理を超えたものの影」において、人間の社会性に関する吉本の以下のパッセージを重視している;


人間はもともと社会的人間なのではない。孤立した、自由に食べそして考えて生活している〈個人〉でありたかったにもかかわらず、不可避的に〈社会〉の共同性をつくりだしてしまったのである。そして、いったんつくりだされてしまった〈社会〉の共同性は、それをちくりだしたそれぞれの〈個人〉にとって、大なり小なり桎梏や矛盾や虚偽として作用するようになったということができる。(全著作集4「個人・家族・社会」四六五ページ)(Cited in pp.88-89)

このような発想に着目した柄谷は、それをルソーともトーマス・ホッブズ(一五八八~一六七九)とも異なる発想とみなしているが、吉本のこの考え方は、マルクスエンゲルスの『ドイツ・イデオロギー*2の一節、人間の意識は「周囲の諸個人との結合関係に入らざるをえない必然性の意識」(五七~五八ページ(略))であるという部分を、彼なりに解釈したところから生まれたと言ってよいだろう。
数あるマルクスエンゲルスの著作のなかでも特に『ドイツ・イデオロギー』は、「現実的な諸個人、彼らの行動、そして」、眼の前に見出されもすれば自分自身の行動によって作り出されもするところの彼らの物質的生産条件」「生きた人間的個体の生存」が議論の出発点であることを強調している。そして、吉本はこの点を踏まえて、先験的かつ直接的な「階級」「階級意識」の観念としては「プロレタリアート」「ブルジョワジー」が成立しえないことを指摘し、たとえばジェルジ・ルカーチ(一八八五~一九七一)を厳しく批判している。(後略)(p.89)